第54回紙の上をめぐる旅
高野秀行『世にも奇妙なマラソン大会』(集英社文庫)
なかなかコロナが収束しない。
それどころか第二波と呼べるような感染者の急増で、再び非常事態宣言が出されるような勢いである。
もう2020年は、マラソンに挑戦するのは無理なようである。今年エントリーしたマラソン大会も軒並み中止になったし、秋口から開催される大会も早々に中止を告知。
今の私の心境は、目的地を失った船のようにふらふらと漂っていて、練習にも気合が入らず、梅雨に入ったのを幸いに、休日は家に籠って絵ばかり描いている。
あの情熱はどこに消えたのか。
自問自答する日々が続いている。
というより運動とは無縁の自堕落な日々が続いている。
そこで心機一転を図ろうと、この本を手にとってみた。
辺境作家と自称するだけに、内容によっては萎れた我が心に、潤いを与えてくれるにちがいない。
期待で胸がふくらむ。
著者が選んだ大会は、サハラマラソン。予め断っておくが、世界的に知られた地上でもっとも過酷なマラソン大会と名高い、6日をかけてサハラ砂漠230キロを縦走するレースではなく、フルマラソンとハーフマラソンの二種目がある小規模の大会である。
こちらの大会は、モロッコに土地を奪われた西サハラの難民の現状を、世界に知ってもらうために開催されている、政治色の強いものらしい。どちらにせよ、灼熱の砂漠を走りたいと思うランナーは、よほどの変わり者か、もしくは通常のマラソン大会では満足できない強者しかエントリーしないだろう。
著者はジョギングする習慣はなく、過去に15キロほど走ったのが最長距離だという。
夜中に酒を飲みながらネットサーフィンをしていたとき、勢いで参加にクリックしたために、出場が決まったという経緯が語られる。
夜になるにつれ、なぜか万能の神が憑依して、怖いものなしの気分になってしまうのは、妄想を頼りに生きてきた自分としては身につまされる。
昨年、山梨で開催された「巨峰の丘マラソン」に参加したときは、友人と盃を交わしているうちに、巨峰が実る小山や丘を縦走するレースの存在を知り、酒の勢いも手伝って、その場でスマホを手にとりエントリーした過去がある。
酒は私を強靭なアスリートに変え、何事にも屈しない精神の持ち主になり、プラス思考しか考えられない頭に変換してしまう。もちろんそれは酒が生んだ幻想に過ぎず、実際の大会では、両足が攣る、陽射しでめまいがする、ようやく下り坂かと思ったら、すぐに上り坂が控えているコースに腹を立てると、精神も肉体もずたずたに引き裂かれてゴールインという散々な結果だった。
マラソンに奇跡やビギナーズラックは起こらない。
著者もサハラマラソンの詳細を調べることなく、ポチッとエントリーのクリックしてしまったわけである。
しかも大会は二週間後に開催されるという。練習する時間どころか、旅行の準備ぐらいの時間しかない。
それでも我に返ることなく、サハラ砂漠へと旅立ってしまうのである。
後悔という文字を辞書から消したこの行動力は、さすが辺境を大好物に世界を旅している人だけある。
サハラ砂漠を走っているときの描写は、見渡すかぎりの砂漠ゆえ目標とする目印がない、灼熱の炎天下をふらふらと彷徨い走る、給水所にランナーが群がる様子など面白く読め、とくに砂に足が埋まっていく様子が、砂漠でしか経験できない出来事で興味深い。
細かい砂地はさらさらと柔らかく、その質感に誤魔化されるが、幾層にも砂が積もっているわけでなく、注意深く踏む場所を選ばないと、直下に岩があって足を挫くことになるというのである。
スポ根ドラマでは砂浜で腰に紐をつけてタイヤを牽くけれど、あの場合は足が砂に深くはまっていくだけで、下に岩が潜んでいるわけではない。
それとは勝手が違うらしい。
砂の上走ると自然と抜き足差し足という動きになり、すると砂は蟻地獄のように待っていましたと、踝どころか足首あたりまで埋めにかかり、そのあと足の裏に堅い岩ががつんと当たってくる。
しかも灼熱の下。少々足首を捻っただけでも、患部は熱をもってすぐに膨れ上がってしまうだろう。
だれが好んで、この過酷な大会に臨むものかと、エアコンの効いた部屋で、ぶつぶつと呟いてしまう。
著者は這う這うの体で無事にゴールインをするのだが、書かれたタイムを見て眼を瞠ってしまった。
5時間39分14秒。
初フルマラソンに参加で、しかも過酷な砂漠での大会で、この好タイムは考えられない。
ほとんど練習と呼べることをしていないと明言しておいて、実は陰でこっそりとハードな練習を黙々とこなしていたのではなかろうか。
よく期末テスト前に、ぜんぜん勉強していないから赤点かもしれないと嘯いて、好成績を残すタイプと似ている。
まあ、10キロ程度走ってリタイヤされては、読み物として成立はしないのだが。
さて読み終えて、天気予報を見ると、午後から雨が降るという。空を見上げると、雲の切れ目から陽の光が射しこんでいて、あと2時間は保ちそうである。
しかしスポーツウェアに着替える気など、まったくない。エアコンの効いた部屋は何物にも代えがたい。
マラソン生活復帰には当分かかりそうである。
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