2018年5月28日 (月)
アルファホテル・インフェルノ
5月 28, 2018 海外仕入れ店主のつぶやき | Permalink
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2018年5月27日 (日)
グジェリの名も無き逸品
5月 27, 2018 海外仕入れ店主のつぶやき | Permalink
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2018年5月23日 (水)
ボゴロツコエ・フェスティバル
5月 23, 2018 海外仕入れ店主のつぶやき | Permalink
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2018年5月22日 (火)
2018年5月21日 (月)
ロシアに里帰りします!
5月 21, 2018 海外仕入れ店主のつぶやき | Permalink
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2018年5月10日 (木)
第45回 紙の上をめぐる旅

岡本太郎『青春ピカソ』(新潮文庫)
最近どういうわけが気分が沈殿し、休日は予定を入れず家に篭りきり、外出する気にさえなれない。
四月は花粉症ゆえ、あえて外出を控えていたのだが、それが板についてしまったようである。
日頃の痛飲、鯨飲、暴飲に愚痴を言わず辛抱強く最後まで付き合ってくれる肝臓を休めるには好い機会と思いつつも、黄金週間のほとんどを家で過ごしているというのは、さすがに不健全である。
今、巷で囁かれている男の更年期とは思いたくない。
単に出不精の性格が、この年齢になって再び顔を出したのだと思いたい。
子供の頃は、昆虫図鑑や鉄道の時刻表を眺めては、ぼんやりと夢想したり、徐ろに絵を描いたりして、夕飯まで過ごしていることが多かった。
旅するのは好きだが、突き詰めれば私の性根は、筋金入りのインドア派なのである。
そんな部屋に篭りきりの私に呆れ顔の家族を尻目に、読書三昧の日々を過ごしている。
本日は岡本太郎『青春ピカソ』を読んだ。
出版されたのが昭和28年だから、岡本太郎が42歳の時の作品になる。
青白いエネルギーで満ち溢れていた青春の日々とピカソの永遠に流転する創作活動を重ね合わせて、このような甘酸っぱい題名にしたのだろう。
それは若き日、ピカソが既成概念を破壊する凄まじい光を放つ作品群を観た瞬間、血肉が熱く沸騰し、産毛が逆立ち息もできない程の衝撃を食らいつつも、同時にピカソが創作した新しい芸術に対し、今度はこの芸術を破壊し新たな芸術を創造するのが、自分の使命だと感じた野心も表している。
《いうまでもなく芸術は創造である。とすれば過去の権威を破砕することによって飛躍的に弁証法的に発展すべにものである。芸術家は対決によって新しい創造の場をつかみとるのだ。もっとも強力な対決者を神棚に祀り上げてしまったのでは、この創造的契機は失われる》
私は美術史や美術様式については門外漢なので、低い声でボソボソと呟くしかないが、この自身の創作に対する所信表明は、諸手を上げて共感する。
権威ある芸術の模倣だけで終わってはならないは、画家にかぎらず、詩人、小説家、音楽家、舞踏家も同じである。
その芸術表現に激しく魂を揺さぶられ、畏敬の念を表しながらも、自身が手にした絵筆は、それを超越する表現を模索しなければならない。
この創作態度は、終始一貫していて、岡本太郎が残した他の著書でも、繰り返し述べられている。
たぶんその頑なな創作姿勢に魅かれて、没頭してしまうのだろう。
最後に何年ぶりかのピカソとの邂逅についての随筆が載っている。
世界的な名声を得た大芸術家と旧交を温めつつ、日本文化や今日の芸術について、若い頃のように議論を戦わすことなく、世間話風に寛いでいる姿に、つい眼を細めてしまう。
ピカソと親友でいる日本人が存在したのが誇らしいというような下世話なことではない。
同時代に旧態然とした価値観を破壊して、新しい芸術を創造しようと挑戦し続けた、規格外の芸術家が日本にもいたことが嬉しく思うからである。
ピカソとの邂逅は、戦争の世紀だった20世紀に、芸術家として共に戦った戦友との思い出話と言えなくもない。
(店主YUZOO)
5月 10, 2018 店主のつぶやきブックレビュー | Permalink
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2018年5月 8日 (火)
ハイボール!ハイボール!

どうも私の舌は高貴な酒には順応していないようである。
居酒屋に行っても、まず眼に飛び込んでくるのは、ホッピーやハイボールといった品書きであり、幻の銘酒や限定入荷の類、ボジョレーヌーヴォー入荷しましたという売り文句は、我が網膜には映らない。
小洒落たショットバーで、スコッチが透明な氷に反射して琥珀色にきらめくのを愉しみながら、舌先で堪能するというような芸当は持ち合わせていないのである。
居酒屋の馬鹿明るい蛍光灯のしたで、まずはビールにしようか、いやプリン体が気になるから最初からハイボールでいくよなどと、戯れ言を呟きながら、最初の酒を決めかねているのが性に合っている。
先頭バッターに銘酒やワインが告げられることは、まずない。
ビールかハイボールのどちらが、今宵の切り込み隊長に適しているか、ちまちまと悩むのである。
お気楽な監督には違いないのだが。

さて長年先頭バッターとして君臨していたビールの座を脅かす存在となったハイボールであるが、どうにも腑に落ちない点がある。
酒造メーカーの積極的な宣伝活動も功を制して、居酒屋の壁には色香が漂う女優が「今宵はハイボールにしましょ」と潤んだ目で見つめるポスターがあり、品書きには何種類ものハイボール・メニューが連ねていて、今や空前のブームと化している。
本来ハイボールというのは安ウィスキーをソーダで割っただけの酒なのに、ジンジャー、レモン、トニックなどの味付けがなされたもの、普通ならばロックで味わう高級ウイスキーを使ったものまで、堂々と名を連ねているのが、一介の酒呑みとしては許し難いのである。
安ウィスキーとはいえ、他の味を加えられるのは、本人としても浮かばれないだろう。
自分は誰かの手助けがなければ、呑兵衛の安直な舌先さえも満足させられない未熟者に成り下がったみたいで、もしくは甲種焼酎と同等の扱いをされたことに一抹の悲哀を感じているにちがいない。
甲種焼酎は一時期、イチゴ、キウイ、パイン、ピーチなど様々な果汁で割ったもの、ピンク、ブルー、バイオレットといった色彩豊かなものまで登場して、居酒屋メニューの看板スターとなった。
しかし一世風靡したのも今や昔。
あの毒々しい色彩の酎ハイを注文する輩は皆無である。
安ウィスキーは同じ末路を辿るのではないかと不安なのである。
その逆に高級ウイスキーは、安物と同じ待遇に、そのプライドが許さない。
ソーダで割ることで、蒸留時に染みついたスモークな匂い、樽の香りといった自慢の芳香を掻き消され、しかも酒造メーカーの名前が印刷された安直なカップに注がれ、製氷機の四角い濁った氷に浸かるのが、憤懣やるせないのである。
ガラス玉のように透き通った丸い氷と共に、切り子細工の鮮やかなグラスに注がれ、琥珀色の身体とスモークな深い味わいを愉しんでもらうのが本望であると。
そのような観点からハイボールの品数が乱発されるのが嫌なのである。
私の望むハイボールは、少し濃いめでソーダは強くてパンチの効いたもの、氷はひとつのみというのが好い。
この単純明快なハイボールは、時間が経過しても、薄くならずキリッと立っていて、酔いが進んでも適度に鈍った舌を刺激してくれる。
単純な味覚こそ美味い。真理である。
(店主YUZOO)
5月 8, 2018 店主のつぶやき | Permalink
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2018年5月 7日 (月)
酒席の話題について

人は何故酒を呑むのかと問われたら、それは一日の憂さやストレスの発散だと長年思っていたが、近頃はそんな単純な理由だけではない気がしている。
気のおけない友と結論もオチもない与太話をけじめなく話し、安酒をあおりながら豚串を肴に呑んでいると、わずか三千円程度の宴が、とても愛おしい時間に思えてくる。
何の生産性も発展もない。
目の前にあるのは、竹筒に並んだ串の数とホッピーの空瓶だけである。
話題も三週間も逃げ回った脱走犯が捕まったこととか、体脂肪や血圧といった健康にまつわるもの、あとは昔のテレビ番組といった他愛のないものばかりである。
話題に政治、宗教、プロ野球は御法度。
春風が通り抜ける見晴らしの良い丘で呑んでいたような清々しい気分が、一転して激論、討論、諍論の修羅場と化し、相手が言葉を逸し黙り込むまで延々と議論を浴びせることになる。
先ほどまでの銘酒を前にして目尻を下げていた酒席が、急運風を告げて、血で血を洗う内戦に変わってしまうのだ。
その時の言葉遣いといったら、酒という発火装置が体内を巡っているだけに、素面の時に聞いたら耐えられないものばかりである。
それも普段ならば、無口で紳士然とした名士だったり、いつも笑顔を絶やさない好々爺だったりするから、その豹変ぶりに、ただでさえ小さな私の眼が見開いて白黒してしまう。
酒の力は使い所を間違えると恐ろしい。

しかし政治、宗教の話題が酒席では控えた方がよいのは理解できるが、プロ野球は解せない尊父貴兄もおられるかと思う。
御贔屓のチームが同じ者同士であっても、盛り上がるかといえば、そう単純なものではない。
喩えば優勝争いをしている終盤戦、天下分け目の大一番で惜敗した試合を思い浮かべればわかる。
敗因の分析を酒瓶が転がるテーブルの上に乗せ、エースだからといって長いイニングを任せた監督が悪い、いや、ここ一番で三振した四番の責任だ、いやいや、あの疑惑の判定で流れが変わったから審判がボンクラだと、それぞれが一流解説者になった口ぶりで自論を展開していく。
最初のうちは他人の意見にも頷きつつ耳を傾けるが、酒量が増えるうちに、聡明だった耳は早々に閉店し、代わりに翌日にならないと反省しない口が、相手を論破すべく言葉尻を捉えては、あんたのようなファンしかいないから大事な試合を落とすんだと、極論で抑えつけようとする暴挙に出る。
もはや戦線布告である。
帰納法も演繹法も、もちろん弁証法もあったものではない。
唯存在しているのは、アルコールの霧の彼方に見える相手を黙らせてやろうという一途な感情だけである。
酒は舌を滑らかにさせるが、感情のタガを外すことになるのも、肝に銘じた方がよい。
酒を呑むときは、他愛のない話題をするのが、お互いの平和のためである。
(店主YUZOO)
5月 7, 2018 店主のつぶやき | Permalink
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2018年5月 3日 (木)
第44回 紙の上をめぐる旅

長谷川恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)
現在、日本は改憲派と護憲派と別れて論戦を繰り広げているが、というか改憲派が多数派の論理で、ゴリ押しして憲法改正まで漕ぎ着けようとしている感がある。
私を含めて、ほとんどの国民が憲法が改正されたら、どう生活が変わるのか、未来はどうなっていくのか、青写真を描くことができないまま、社会は揺れ動いているにちがいない。
それは戦後70年以上の間、憲法について活発な議論がなされていない事実と、何よりも国民に憲法とはどういう理念で成立しているか、国家においてどのような位置づけにあるのかを、きっちりとその定理を説明してこなかったし、教育もなされなかったことに一因がある。
法律と憲法は同じ位置にあり、いつでも時代に応じて変えられると、考える人も多いのではないか。
そこで今、熱い議論がなされている憲法について、どのような経緯をもって立憲主義が生み出されたのか、憲法にうたわれる理念とは何なのかを、今一度、アルコールで軟弱になった頭を使って考えてみようと思った次第。
何も知識がないままに、この今後の国の体制をうらなう問題をジャッジするよりは、何かしら腑に落ちた結論を持った上で決めないと、未来に生きる世代に迷惑がかかる。
この本では、近代社会が立憲主義に至るまでの経緯を、ルソー「社会契約論」、ホッブスやゴーティエなどをテキストに、何故に基本的人権や生存権といった概念が論議され、個人の自由を保障するようになったのかを解説する。
そのなかで興味深いのは、大多数が希求することが、決して万人の幸福を導くことに当たらないとして、民主主義的な多数決の論理を、全面的に肯定していないということ。
そこには宗教や人種などが混在している国家において、少数民族や少数の宗派が弾圧されることになりかねないという考えに基づいている。
また権力者によって、特定の団体や結社を優遇し、多数がその方向になびいた場合、社会的な価値観まで脅かすことになりかねず、個人の自由を侵害する恐れことになりうる。
つまり憲法とは、時代の潮流や権力に容易く流されなれないようにつくられた防波堤である。
著者は立憲主義についてこう書いている。
《この世の中には、社会全体としての統一した答えを多数決で出すべき問題と、そうでない問題があるというわけである。その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目である。》
この立憲主義の考えに至ったのは、何も第二次世界大戦が終わってから、その犠牲を教訓にして人類が得た叡智ではない。
フランス革命後に市民社会が出現し、そのなかで試行錯誤を繰り返しながら辿り着いた叡智なのである。
ひとりの愚鈍な権力者が、議会のルールを無視し、多数の論理で押し切って、変えられるような安直なものではない。
徹底して議論を重ねた上で、憲法改正について国民に信を問わなければ、この国の民意の成熟度を疑われるし、立憲主義に辿り着いた歴史が、リセットしかねない。
(店主TUZOO)
5月 3, 2018 店主のつぶやきブックレビュー | Permalink
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2018年5月 2日 (水)
第43回 紙の上をめぐる旅

高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)
高橋源一郎の本を読むのは『ペンギン村に陽は落ちて』という、どう解釈して良いのか判断できかねる小説以来2冊目。
よって、熱心な読者ではないし、思い入れ過ぎによる偏向した読み方もできない。
結論から言うと、民主主義とは何だろうと、市井の人々の目線で考えられる、なかなかの良書である。
民主主義は人類が到達した高度な思想だとは、考えていない。完成されたものではなく、色々な不備や欠陥がある発展途上の思想だと思っている。
個人の自由、平等、権利に重きを置きながらも、その解釈は地域、文化、歴史、風習、強いては男女間によっても異なるだろうし、多種多様な価値観があるなかで、国家としては一番最適な決定を選択しなければならない。
発展途上である以上、常に緊張感をもって、為政者は国民の大多数が納得する、より良い方向へと駒を進めていくべきもの。
学生時代に受けた講義で、憲法学者の古関彰一教授が「民主主義とは何事決まるのに、一番手続きが面倒な国家体制です」と言ったのを未だに覚えている。
スズメの涙ほどの思考力しかないボンヤリした私でも、この言葉は常に心の隅にあって、社会人になった今でも、会社や地域で決め事がある度に、パブロフの犬のように条件反射として反芻してしまう。
それほどまでに私にとって強烈な一撃だった。
それならば、一個人として何をしなければならないのか。
それは周囲やマスコミに流されない自分自身の意見を持つことであり、反面、対峙する意見にもしっかりと耳を傾ける寛容さが、必要なのだと、この呑んだくれオヤジは考える。
いみじくもサルトルがアンガジェという言葉で、社会へのコミットを促したように、偶然にもこの国に生まれてしまった以上、積極的な社会参加や異議申し立てを自身の意見として持つことが、この国が堕落していかない唯一の手段であると思う。
ちなみに今宵は、それほど酒はすすんでいない。
この本の題名のような『ぼくらの民主主義なんだぜ』という国家を、権利を、個人を身近な問題として捉える意識が、この国に生きる者として必要だと信じている。
国家なんて、国民が自ら口を閉ざしてしまえば、いくらでも為政者の好きな方向に突き進んでしまうのだ。
「民主主義とは何事決まるのに、一番手続きが面倒な国家体制です」という言葉を信条としている者として、その思いは揺るがない。
(店主YUZOO)
5月 2, 2018 店主のつぶやきブックレビュー | Permalink
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