第44回 紙の上をめぐる旅
長谷川恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)
現在、日本は改憲派と護憲派と別れて論戦を繰り広げているが、というか改憲派が多数派の論理で、ゴリ押しして憲法改正まで漕ぎ着けようとしている感がある。
私を含めて、ほとんどの国民が憲法が改正されたら、どう生活が変わるのか、未来はどうなっていくのか、青写真を描くことができないまま、社会は揺れ動いているにちがいない。
それは戦後70年以上の間、憲法について活発な議論がなされていない事実と、何よりも国民に憲法とはどういう理念で成立しているか、国家においてどのような位置づけにあるのかを、きっちりとその定理を説明してこなかったし、教育もなされなかったことに一因がある。
法律と憲法は同じ位置にあり、いつでも時代に応じて変えられると、考える人も多いのではないか。
そこで今、熱い議論がなされている憲法について、どのような経緯をもって立憲主義が生み出されたのか、憲法にうたわれる理念とは何なのかを、今一度、アルコールで軟弱になった頭を使って考えてみようと思った次第。
何も知識がないままに、この今後の国の体制をうらなう問題をジャッジするよりは、何かしら腑に落ちた結論を持った上で決めないと、未来に生きる世代に迷惑がかかる。
この本では、近代社会が立憲主義に至るまでの経緯を、ルソー「社会契約論」、ホッブスやゴーティエなどをテキストに、何故に基本的人権や生存権といった概念が論議され、個人の自由を保障するようになったのかを解説する。
そのなかで興味深いのは、大多数が希求することが、決して万人の幸福を導くことに当たらないとして、民主主義的な多数決の論理を、全面的に肯定していないということ。
そこには宗教や人種などが混在している国家において、少数民族や少数の宗派が弾圧されることになりかねないという考えに基づいている。
また権力者によって、特定の団体や結社を優遇し、多数がその方向になびいた場合、社会的な価値観まで脅かすことになりかねず、個人の自由を侵害する恐れことになりうる。
つまり憲法とは、時代の潮流や権力に容易く流されなれないようにつくられた防波堤である。
著者は立憲主義についてこう書いている。
《この世の中には、社会全体としての統一した答えを多数決で出すべき問題と、そうでない問題があるというわけである。その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目である。》
この立憲主義の考えに至ったのは、何も第二次世界大戦が終わってから、その犠牲を教訓にして人類が得た叡智ではない。
フランス革命後に市民社会が出現し、そのなかで試行錯誤を繰り返しながら辿り着いた叡智なのである。
ひとりの愚鈍な権力者が、議会のルールを無視し、多数の論理で押し切って、変えられるような安直なものではない。
徹底して議論を重ねた上で、憲法改正について国民に信を問わなければ、この国の民意の成熟度を疑われるし、立憲主義に辿り着いた歴史が、リセットしかねない。
(店主TUZOO)
5月 3, 2018 店主のつぶやきブックレビュー | Permalink
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