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2018年4月23日 (月)

第45回 耳に良く効く処方箋




エリス・レジーナ『エリス・エスペシャル』(フィリップス)

エリス・レジーナが瞬く間に、国民的歌手に昇りつめた1968年に発表されたアルバム。
次作が永遠の名盤『イン・ロンドン』だけに、その前哨戦ともいうべき1枚。


興味深いのは、次作でも歌われたエドゥ・ロボ「Corrida de jangada 」と「Upa neguinho 」の2曲を取り上げていること。
生涯、エリスを代表する曲だけに、聴き比べてみるのも面白い。
アレンジやテンポに大きな違いはないのだが、エリスの歌い方に大きな変化がある。
本アルバムではメロディを重視した元歌に近いのに対し、次作ではリズムに乗って弾けんばかりに歌い上げる。
わずか1年あまりの間に、同じ曲をまったく異なるアプローチを試みて、表現の幅を広げているのだ。
この曲はリズム感良く歌うのが一番と感じ、それを実現させてしまうのが、並みの尺では計れない才能を感じるところである。


私のような凡才からみれば、その豊かな才能を羨むなど、露の先ほども思わない。
こんな凄い歌手に出会えたことに感謝するばかり。
爪の垢を煎じようとさえ思わない。
多謝のうえに多謝である。


このアルバムでは、シコ・ブアルギとジルベルト・ジルの曲を取り上げているのも注目。
当時、2人とも新進気鋭の若手の音楽家だっただけに、才能を発掘することにも、エリスが長けていたことに気づかされる。
自身で作曲しない分、優れた曲を見出すことに、天性の勘があったのだろう。
36年という短過ぎる生涯で、ブラジルを代表する歌手になれたのも、優れた曲を嗅ぎ分ける能力があったのと、新しいジャンルにも果敢に挑戦する気持ちがあったことも無視できない。
懐メロ歌手に甘んじることは、決してなかった。


アルバムの最後はマンゲイラを代表するサンバ・メドレーで幕を閉じる。
祖国ブラジルが軍事独裁政権下にあっても、媚びることなく、常に民衆の側に立ちたいという意志が、このサンバ・メドレーに表れているのではと思う。
小粒ではあるが、ピリッとした辛味を感じるアルバムである。


(店主YUZOO)

4月 23, 2018 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月21日 (土)

第44回 耳に良く効く処方箋




エリス・レジーナ『サンバ,エウ・カント・アッシン』(フィリップス)

ブラジルに歌の上手い歌手は数多くいるけど、エリス・レジーナだけは別格である。
歌姫などという安易な表現では、その才能と個性を言い表せない、絶対的な存在である。
最初に聴いたのは、エリスを代表する名盤『イン・ロンドン』。
バックを務めるミュージシャンの超絶な演奏力に舌を巻いたが、そのタイトな演奏を従えて、抜群のリズム感と表現力で歌うエリスの姿に、鮮やかにノックアウトされたのである。


鳥のように軽やかに、どこまでも自由に、歌声と声量を思うがごとく操り、取り上げた曲をエリス流に創り上げてしまう手腕は、アレサ・フランクリンを思わずにいられなかった。
神に選ばれし歌声を持つ者だけが、辿り着ける高みである。
『イン・ロンドン』を聞き終えた時の幸福感は、昨日のことのように覚えている。


このアルバムは、エリスが本格的にキャリアをスタートさせた、フィリップス・レコードに移籍してからの1枚目である。
それ以前にも数枚アルバムを発表しているのだが、エリスの才能に見合うだけの曲とプロデュースが至らず、消化不良に陥っているものばかりだった。
その辺りもアレサと一緒で、CBSからアトランティック・レコードに移籍して、一気にその才能を開花させた経歴も似ている。


このアルバムでは、ボーナス・トラックと合わせて、13曲中4曲、当時新進気鋭の作曲家エドゥ・ロボの作品を取り上げている。
エドゥのアフロ・リズムを取り入れたビートの強い曲調は、エリスの才能に馴染んだのだろう。
自分のためにエドゥが作曲してくれたと確信しているかのように、自由奔放にイマジネーションが向くままに歌い、エリスらしい世界観を創り上げている。
エドゥの曲と出会えたことは運命的で、キャリアの始めにの段階で、この出会いはターニングポイントとなったと思う。


アルバムの題名を訳すと「サンバ,私ならこう歌う」。
ジャケットのドヤ顔といい、そう言い切る自信に、その後、国民的な歌手への道を昇りつめる歌手になるのを、暗示しているようである。
まだ20歳を迎える前の作品である。
才能に満ち溢れた人は、末恐ろしい。

(店主YUZOO)

4月 21, 2018 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月20日 (金)

第43回 耳に良く効く処方箋




マリア・マルダー『オールド・タイム・レディ』(リプライズ)

先日、紹介したジェフ・マルダーの相方。
コンビ解消後の翌1973年に、早くもこのソロ・アルバムを発表している。
交流ある音楽仲間が共通しているせいか、エイモス・ギャレット、クリストファー・パーカーが参加。
またライ・クーダー、クラレンス・ホワイト、ドクター・ジョン、さらにサザン・ソウルの重要人物スプーナー・オールダムがピアノで参加と、こちらもジェフと同じく豪華メンバーを揃えている。


題名通り、古き良きアメリカの香りが漂う、ご機嫌なナンバーが収められ、南部の安酒場のステージを見ているようで心地よい。
しかも曲調もバラエティに富んでいて、ダン・ヒックス調小唄あり、ニューオリンズ風R&Bあり、カントリー、ジャグとアメリカのルーツ音楽というべきスタイルが、キラ星のごとく詰まっている。


このアルバムが名盤と呼ばれる所以は、ヒットした「真夜中のオアシス」が収められていることもあるだろう。
アルバム内では異質の光を放っている曲で、都会的に洗練されたサウンドをバックに、軽やかなマリアの歌声が絡む。
そして流麗なフレーズが印象に残るエイモス・ギャレットのギター・ソロ。
ヒットしたのも頷ける名曲である。


ただこの曲だけで、あとは埋め合わせの駄曲だと、くれぐれも短絡的にお考えならないように。
少し毒気のある見方をすれば、この曲はアルバムのなかでは浮いている、空気の読めない自己主張の強い子と言えなくもない。
生徒会長にならないと、機嫌を損ねるタイプ。
アメリカの古き良き音楽を感じないのである。


たぶんこの曲だけは、アルバム制作とは別に、シングル盤用として先に作られたのではないのだろうか。
大ヒットしたおかげで、アルバムを売る為に、少しばかり毛色が違うが収録してしまおうというレコード会社の思惑が、見え隠れする。

個人的には、ドクター・ジョンのニューオリンズ臭がむんと漂うピアノが嬉しい。
このアルバムでは数曲に参加し、さらにホーン・アレンジを担当して、オールド・タイムを具現化するのに一役買っている。
ベスト・トラックは、ピアノが前面に出た「Don’t you feel my leg 」。
ドクター・ジョンのピアノに導かれて、マリアはニューオリンズの歌姫になったかのように、エッジの効いた歌唱を聴かせてくれる。


このアルバムが何度聴いても飽きないのは、マリアの歌手としての才能と個性があるからこそ。
この澄んだ清らかな歌声が、世間の荒波に飲まれて、荒みきったオヤジの心を、どれだけ癒してくれただろうか。
つい金曜日の夜に聴いてしまう。
胃もたれしない身体と耳に優しいアルバムである。


(店主YUZOO)

4月 20, 2018 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月18日 (水)

第42回 耳に良く効く処方箋




ジェフ・マルダー『ワンダフル・タイム』(リプライズ)

ポール・バターフィルド・ベターデイズ解散後に発表されたジェフ・マルダーのソロ・アルバム。とにかく参加ミュージシャンの顔ぶれが豪華絢爛。
エイモス・ギャレット、コーネル・ドュプリー、ロン・カーター、バーナード・パーディ、クリストファー・パーカー、ビリー・リッチ、ジェームス・ブッカーといった面々。
アメリカ音楽シーンを陰で支えた腕のたつ強者ばかりである。
これだけの面子が揃えば、ワールドカップの一次予選は余裕で通過できる。うらやましい。


アルバムは、1930年の映画『ザ・ビック・ポンド』の挿入歌で幕を開ける。
古き良きアメリカのジャズ楽団が偲ばれる小粋なアレンジで、ジェフの音楽的懐の深さを十分に感じさせる1曲。
以前、マリア・マルダーと組んだアルバムに映画『未来世紀ブラジル』のテーマ曲を歌っていたけれども、そのセンスは健在。
4曲目にも『バッグダッドの盗賊』のテーマ曲を挿入しているのをみると、ジェフの音楽ルーツに映画音楽があるのは間違いないだろう。


このアルバムに聴きどころは数多くあるが「Gee baby ain’t I good to you 」におけるエイモス・ギャレットのギターソロ。
名演奏と謳われたマリア・マルダー「真夜中のオアシス」、ベターデイズ「Please send me someone to love 」と並び称されるほど印象深い。
流麗なフレーズを弾きながら、饒舌にならず
、俗ぽいドラマ性を求めず、淡々としたソロでありながらも、表情豊かで情緒があり、里帰りにも似た安堵感がある。
ギター小僧ならば、この1曲だけでも価値がある。


個人的にはヒューイ・ピアノ・スミス「High blood pressure 」を取り上げてくれたのが嬉しい。
奇才ジェームス・ブッカーのコロコロと転がるピアノで始まり、アフタービートの効いたリズム隊、歯切れの良いフレーズを吹くホーンが繰り出す様は、1950年代のニューオリンズ黄金期を彷彿させてくれる。


そしてボビー・チャールズ「Tennessee blues 」を元妻マリアと愛娘ジェニーと仲睦まじく歌い、アルバムは終わる。
その数曲前のトラックでも、マリアと出会いの場となったジャグ・バンド時代のスタイルで共演。
こういう未練がましいダメ男ぶりも、ジェフの魅力だと思うのは、私だけだろうか。
優しくて、傷つきやすい人なんだろうね。

(店主YUZOO)

4月 18, 2018 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月16日 (月)

第41回 耳に良く効く処方箋




リル・リンドフォッシュ『たった一人のあなた』(ポリドール)

完全無欠のジャケ買いである。
清楚で凛々しい顔立ちの娘が、微笑むわけでなく、何かを伝えたいわけでなく、じっとこちらを見つめている。
アイドルのつくられたグラビアの笑顔よりも、こういう意味深な表情の方が、いろいろと想像力を掻き立てられて、エロティシズムを感じる。
青春をはるかに昔に置き忘れたオヤジは、普通とは違うものに、ときめいてしまうのである。


発表されたのが1967年。
「夢見るシャンソン人形」でヨーロッパ中の男を虜にしたフランス・ギャルと同時代ということも後押しして、300円を払い、我が家に連れて帰ることにした。
この手のジャンルは需要が低いのか、だいたい中古レコード屋の片隅に置かれ、タダ同然の値段しかつかない。
掘り出し物が潜んでいる穴場コーナー。
私はワンコイン・ジャンルと呼び、好んでエサ箱を漁っている。


肝心の内容はというと、映画音楽やボサノヴァのスタンダードといった曲を中心に組まれている。
オープニングはフル・オーケストラをバックに歌われる「禁じられた遊び」。
元はギターの練習曲で歌詞がついていないのだが、哀愁を帯びた美しい曲調のため、世界各地で独自に歌詞がつけられて、愛唱歌となっている。
ちなみに日本でも歌詞がついたものが、東京放送児童合唱団が歌っているので一聴を。
YouTube で聴けます。
このスタンダードを、リル・リンドフォッシュは、アイドル風に舌足らずにコケティッシュな魅力で迫るという姑息な手段は取らずに、堂々と歌っているのが潔い。


さらに映画『いそしぎ」の主題歌と続き、注目はセルジオ・メンデス&ブラジル66が世界的に大ヒットさせた「マシュケナダ」。
原曲のポルトガル語ではなく母国フィンランド語で歌われていて、英語とドイツ語が掛け合わさったような言葉の響きが新鮮で、今まで口にしたことのないエスニック料理を味わった時のように、そう簡単に納得しない頑固な耳も嬉んでいる。


13曲目はボブ・ディランの曲で、邦題は「ほっといてよ」。
そんな題名の曲があっただろうかと、頭を縦に横にとひねったが、該当する曲が思い当たらないし、歌詞から推測しようにもフィンランド語では、取りつく島もない。
アレンジもお洒落な北欧アイドル・バージョン(?)に変えられていて、ボブ・ディランの片鱗もない。
微かに原曲を感じるメロディから「Don’t think twice,It’s all right 」だと踏んでいるが、如何だろうか。


全曲を聴いて思うには、リル・リンドフォッシュは世界中のヒット曲やスタンダードを歌いながらも、一貫しているのは、すべてフィンランド語で歌っていること。
今でも第一線で活躍しているというから、その要因は、徹底した母国愛、世界市場をターゲットにしない姿勢にあるのではないかと、勝手に邪推。
それともフィンランドにも、漣健児のような天才的な訳詞家がいたのだろうか。


60年代洋楽アイドル好きは、ぜひ揃えておきたい1枚。


(店主YUZOO)

4月 16, 2018 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月13日 (金)

第42回 紙の上をめぐる旅




ソルジェニーツィン『短編集』(岩波文庫)

長い間、探していた本を、ようやく神田で見つけた。
今はインターネットで検索すれば欲しいものを容易に手に入れられる時代ではあるが、クリックひとつで実現してしまうのは、何だか味気ない。
古本屋の薄暗い灯りの下で、眼をしょぼつかせながら、本棚を一段ずつ右から左へと追っていき、ようやく見つけ出した時の喜びは、金鉱を掘り当てような気分で、何ものにも代え難い。


まさに一期一会。出会いに物語がある。


何故ゆえにこの本を探し続けていたかというと「マトリョーナの家」という短編が収められているからである。
マトリョーナといえば、マトリョーシカの元となったロシア女性の名前で、マトリョーシカが生まれた19世紀には、かなり一般的な名前だったと言われているものの、意外にも文学作品で巡り合わない。


私が読んだ範囲では、ネクラーソフ「だれにロシアは住み良いか」とドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に出てきたぐらい。
ネクラーソフのマトリョーナは大地に生きる逞しい女性がいきいきと描かれていたが、ドストエフスキーのマトリョーナは、下働きの貧しい女性で、個性も乏しい。
それだけにソルジェニーツィン版マトリョーナに対する期待は、否応にも高まるというもの。


発表されたのは、スターリン批判が行われた第22回ソビエト共産党大会があった1961年、雪解けの頃。
その歴史的な批判から2年後の1963年に「新世界」から出された。
マトリョーナの一生を描いた、この物語は1953年に設定され、1893年生まれの60才にしているところに、思わず細い眼をさらに細くしてしまった。
マトリョーシカが誕生したのが、1890年代末と推測されているので、ほぼ同年代だからである。


マトリョーナはとても貧しいのだが、困っている人があれば無償で手助けし、多くの資産を持たず、他人に騙されても、それなりの理由があるからだろうと考える、温厚で信心深い人柄として描かれている。
ソルジェニーツィンはその温厚な人柄に、ロシア革命以前の古き良き共同体が成立していた社会と、ノルマを達成することと個人財産を守ることに終始する、今のソビエト社会に生きる人々と対比させている。
マトリョーナの生き方を通じて、どちらの社会が人間らしい生活を送っているのかと、問題提起しているのだ。


物語は、奪われた自分の財産を乗せたトラックが線路で立ち往生した時に、お人好しのマトリョーナは手助けに行き、非業の死を遂げてしまう。
ソルジェニーツィンはその死を悼み、慈しみ深い言葉でこう結ぶ。


「自分の夫にすら理解されず、棄てられたひと。六人の子供をなくしながら、おおらかな気持ちをなくさなかったひと。妹や義理の姉とちがって、滑稽なほどばか正直で、他人のためにただ働きばかりしていたひと(中略)われわれはこのひとのすぐそばで暮らしておりながら、だれひとり理解できなかったのだ。このひとこそ、一人の義人なくして村はたちゆがず、と諺にいうあの義人であることを」


この小説が書かれた時とマトリョーシカが生まれた時代は、70年以上の隔たりがある。
しかし私が手にしているマトリョーシカは、無償の愛を兼ね備えた人が生きた時代。
この人のように生きなさいという願いを込めて付けられたのである。
そう思わずにはいられない。


(店主ЮУЗОО)

4月 13, 2018 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月10日 (火)

第41回 紙の上をめぐる旅




アファナーシェフ『ロシア民話集(下)』(岩波文庫)

昨日紹介した本の下巻。
上巻は動物が登場する童話や滑稽譚が、比較的に多かったのに対し、下巻は宗教的色彩を帯びた訓話、物語の展開も、血族同士の争い、欲深い商人が悲惨な末路を辿るもの、地の果てまで魔王を倒しに旅をするというようなドラマティックなものが主になっている。


もちろん「その酒盛りにわたしも呼ばれて蜜酒を飲んだけど、蜜酒はひげをつたって流れてしまい、一滴も口に入らなかった」というユーモア溢れる締めの言葉もない。


瞠目するのは「金の卵を生む鶏(鴨)」。
周知の粗筋は、金の卵を毎日生む鶏を手に入れた老夫婦が、毎日1個の卵では飽き足らなくなり、もしやこの腹のなかには大きな金塊が入っているのではと思い立ち、絞め殺してしまうが、お腹には何もなかったというもの。
欲をかき過ぎると、毎日1個の金の卵というささやかな幸せさえ失ってしまうのだという教訓譚。


しかしこちらに収められている話は、知られているものとはまったく違う粗筋と結末。
金の卵を生む鴨を手に入れたことで、貧乏家族の暮らし向きが良くなった頃、夫の留守中に妻が不貞をはたらき、鴨の存在を間男に話してしまう。
その鴨のお腹を見ると「この鴨を食べる者は王になり、心臓を食べる者は金の唾を吐くべし」と書かれていたので、すぐさま鴨を絞め殺すが、間男が席を外した隙に、二人の息子がその重要な部位を食べてしまう。


間男はその母親に息子を殺しを命じて、同じ部分の肉を取り出してこいと叫び、慌てた二人はお互いを励まし合いながら逃げていく。
それはそうだろう。
実の母親に命を狙われるのだから。
そして最後に悪は成敗され、息子たちと父親には未来永劫続く幸せが訪れ、母親は元の貧乏人に成り果てるという現実味のある物語となっている。


母親が息子たちを殺害しようと企てる様は血なま臭く、現代社会の病巣にも通ずるもの。
背筋が薄ら寒くなる話である。
ほかにも血を分けた兄弟が殺し合う話、魔王である実の父親を殺害するのを手助けする王女の話など、血縁関係をめぐるおどろおどろしい物語が多い。
「カラマーゾフの兄弟」が書かれた時代に、このアファナーシェフの民話集が出版されたことも興味深い。


あとがきで「十九世紀中葉のロシアはツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイなどの大作家を輩出させたが、彼らが最も盛んに活動した「小説の黄金時代」は、この国でフォークロアすなわち口承文学の収集と刊行が本格的に開始された時期と一致している」と冒頭に書かれていて、膝を叩き、目を瞠り、大きく納得した次第。


民話に登場するイワンは、お人好しでバカな人物ばかり。
それゆえに住んでいる国や家族に幸せをもたらしてくれる、尊い存在として描かれている物語も多い。
そういえばトルストイ「イワンのばか」のあとがきで、ばか=白痴を純粋無垢な存在、神にも似た存在として信仰の対象になっていたと書かれていたような気がする。


ロシアは奥深い。


(店主ЮУЗОО)

4月 10, 2018 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月 9日 (月)

第40回 紙の上をめぐる旅




アファナーシェフ『ロシア民話集(上)』(岩波文庫)

19世紀半ば、ロシア・フォークロア学者として大きな功績を残したアファナーシェフ。
この偉大なる学者の長年にわたる口承文芸の採取と編纂のおかげで、こうして話し言葉が文字になり、海を隔てた国でも気軽に愉しむことができるのである。
後世に残る仕事は、何も大きなビルやプラントを造ることだけではない。


仕事柄、マトリョーシカや陶器に描かれた物語を訊かれることがあるが、物語の多くは民話だったり、プーシキンの小説だったりする。
訊かれても微笑みだけを返して「何でしょうね」と応じているようでは、専門店の名に恥じる行為であり、また資料を眼にしてボソボソと答えているようでは、何処ぞの国会答弁と一緒である。
相手の眼を見て、清々しく答えなければならない。


この本には36編の民話が収められている。
日本でも知られている「蕪(大きなかぶ)」も収められているのだが、ほぼ粗筋は同じなものの、登場人物が違うのが、口承文芸の興味深いところ。
私たちが幼い頃に手にした絵本では、お爺さん、お婆さん、孫娘、仔犬、猫、鼠と続いていくのだが、こちらの本では、仔犬から続くのは足で、次々と出てくる。
しかも何の足か明記はなく、しかも5本が並んだ末に、見事に蕪が引き抜かれたという結末。実にシュールな光景。


子どもの頃に聞いたときは、最後に非力な鼠の力添えで蕪が抜けたことが面白くて、何度も読み聞かせてもらった。
しかし物語の核心は、そんな牧歌的な顛末ではなかったのである。
5本の毛深い足が、お互いの毛を絡ませながら引っ張る姿を想像してもらいたい。
気色悪いと思うのが現代的な感覚であって、近世のロシア民衆気質は、その光景に面白さを求めていたのではないか。
何しろゴーゴリに「鼻」を書かせた国である。


他にも「テレモック」に似た「動物たちの冬ごもり」といった興味深い話もある。
もちろん森に住む魔女バーバー・ヤガーは様々な物語に登場して、訪ねた者を大釜で茹でて一飲みしたり、魔術で様々な物に変えてしまう。
こんな怖い話を、蝋燭の灯りの下で聞かされてたら、子どもたちだけではなく、大人たちも震えがったのだろう。


そして多くの話が「その酒盛りにわたしも呼ばれて蜜酒を飲んだけど、蜜酒はひげをつたって流れてしまい、一滴も口に入らなかった」という言葉が、締めとして慣用句となっている。
口承文芸は酒宴の席で、話術の得意な者が話しただろうから、言わば落語の「お後がよろしいようで」同様の結びの言葉として、一般化したのかもしれない。
いろいろと興味の尽きない本である。

(店主ЮУЗОО)

4月 9, 2018 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)