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2018年2月 9日 (金)

酒呑みは如何にして鍛えられたか





齢五十を越えると、持病がないといけないようである。
最近、同期や同級生と呑みに行くと、最初に口をついて出るのは健康診断の結果で、ガンマーGDPや血糖値の数字について医者並みに詳しくなり、再検査の数を誇らしげに語り始める。
仕事や家族の話などの話題は、二の次になり、もちろん昔のような初々しい恋愛話など、俎上にすら上らない。


「糖尿病予備軍なんて言われちゃってさぁ。だから最近は日本酒を辞めて、ハイボールにしているんだよね」
「俺なんか痛風だから、ビールはタブーなの。あと鯖や鰯といった光り物もね。だから刺身盛りは鮭しか食べないよ」
「体脂肪率が30%を超えると、どうなるかわかる?寒さを感じないんだよ。ハハハ」


それならば酒を断てば良いのにと思うのだが、それは健康とは別の問題であって、呑む酒の種類を変えることで、簡単に解決できると考える。
酒呑みが厄介なのはこの思考回路があるからだろう。
根本的に酒は百薬の長と信じている節がある。




また朋友の話を聞いているうちに、健康な身体は、教会で懺悔しなければならないような罪深いことのように思えてくるのが、酒場の談義の不可思議さである。
そんな大酒呑みなのだから、身体の何処かに不調をきたしていないのは、酒の神バッカスか酒呑童子の子孫だと、半ば呆れられる。
当然、酒呑みは不摂生の権化みたいな存在ゆえ、絶対に肝臓なり膵臓なりが悲鳴をあげていなければ、正しい酒呑みではないと逆に非難されることになる。
酒は百薬の長であると右目で語り、大酒呑みは内臓に疾患がないといけないと左目で悟すわけである。


相反する事柄に整合性を持たせるのは、酒呑み独自の弁証法。
酔うか覚醒かの二次元で世界は成り立っていると考えている。
よく缶ビールや缶チューハイに、お酒は節度を持って飲みましょうと書いてあるが、あれはこの弁証法から遠く外れて、酔うために呑んでいるのに、何を戯れ言を掲げているのだという論理になる。


そこで三十年以上も酒と付き合っていると、ひとつの考えに至る。
記憶を失ったり、ヘラヘラと壁を見て笑い続けていたり、終電を乗り過ごしたり、いかがわしい店でボッタクられたりを繰り返しながらも、なぜ酒を辞めたと思わないのかと。
もちろん二日酔いの朝に布団の中で、酒辞めたと叫ぶことはある。
しかしそれは一過性のことであって、夕方には何事も無かったように振る舞ってしまう。




酒呑みは学習能力が低いことは否めないが、それ以上に好奇心が旺盛なのではと思う。
美酒、銘酒、希少酒、王道酒、珍酒、奇酒、変酒、稀酒など、目の前で酒瓶がちらつくと呑まずにはいられない。
どのような芳香が鼻腔をつき、ゴクッとした時の喉越しが辛いのか、苦いのか、水の如しなのか、そのあとに五臓六腑にどう染み渡るのかが、知りたくて居ても立ってもいられないのである。
そこには健康診断の結果は存在しない。


盃一杯であちらの世界に誘う強い酒だったとしても、その酒に出逢えたことに満足するだろうし、何本呑んでも酔いが回らないパンチの弱い酒であっても、それはそれで幸せな出逢いなのである。


今宵も朋友は、今度の土曜日が再検査なんだと愚痴を言いながら、初めて耳にする銘柄を嬉々として注文している。
明日は明日の風が吹く。


(店主YUZOO)

2月 9, 2018 店主のつぶやき |

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