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2017年12月29日 (金)

第8回 耳に良く効く処方箋




ジェームス・ブラウン『ライブ・アット・ガーデン』(キング)


ジェームス・ブラウンの怒涛のライヴを捉えたアルバムは数多くあれど、この1967年に発表された作品は、名盤『ライヴ・アット・ジ・アポロ』などと比べると、かなり知名度が低い。
CD化も2007年に日本で発売されたのが、初めてとなる。
しかし、そんな事はどうでもいい。
「ぐるなび」の点数がその店の味を表しているわけでないように、点数の低い店は全て不味いとはならない。


60年代半ばから70年初めにかけてのジェームス・ブラウンとゴッドファーザー・オブ・ファンクは同義語だったことは、誰もが納得するところ。
いや、ファンクの神様が降臨していたと言ってもいい。
ジェームス・ブラウンがいなければファンクという音楽が完成していなかったし、これほどカリスマ性を帯びたミュージシャンは、比するべき人物は、ほとんどいない。
ワン&オンリーの絶対的な存在。
ステージに降り立った瞬間、観客は興奮の坩堝と化し、神様のシャウト、スクリームに熱狂し、会えた悦びで失神する。
もうステージというより、宗教的な儀式である。


その辺りは、YouTubeでジェームス・ブラウンで検索してみてください。
神様が激しく踊り、マイクスタンドを操り、シャウトを繰り返す姿に、崇高な気持ちで体温と精神がヒートアップしてきます。
こんな凄まじいステージを年間300以上もこなしていたのである。人間の為せる事ではない。
神様以外の何者でもない。


このアルバムもその儀式の瞬間をパッケージした名盤である。
「Out of sight 」、「Bring it up 」で観客の体温を5℃ほど熱くさせ、「Try me 」で少しクールダウンさせる。
鋼を製造するがごとく、熱してから冷ますという作業をすることで、ステージと客席が一体感になることを、神様は熟知しておられるのだ。


白眉は「Hip bag ‘67」という即興的な曲で展開する人知を超えたシャウト&スクリーム、「Ain’t that a groove 」でみせる観客を煽り立てる姿。
ものすごい熱気と一体感である。


ラストはお決まりの「Please please please 」のマントショーで大団円を迎えるのだが、この完璧なステージの流れを見せられて、興奮で鼓動は高まったまま。
神様は人々に歓喜と悦びを与えられたことで、満足して楽屋裏へと去っていく。


ジェームス・ブラウンのライヴに駄盤なし。
すべてが神様の尊い儀式を捉えた名盤である。

12月 29, 2017 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月28日 (木)

第18回 紙の上をめぐる旅




藤本和子『ブルースだってただの唄』(朝日選書)

この挑発的な題名の本を書いた著者は、60年代アメリカを代表する作家、リチャード・ブローディガンを日本に紹介してくれた翻訳家。
学生時代にブローディガンの描く刹那的でありながら、独特のユーモアを散りばめた作品群に虜になっていた私には、その仕事ぶりに感謝しなければならない方なのである。


この本が出版されたのは1986年。
もう30年以上も前になる。
新刊として本屋に並んだ際に、すぐに購入したのだが、今回、近所の古本屋のワゴンセールで背焼けしているのを見て、懐かしさと同時に居た堪れなく再購入した次第。
もう内容は記憶の彼方に消えてしまっているし、アルコールで毒されていない紅顔の文学青年だった頃を、回顧する気持ちも後押しして。


この本、題名の通りにブルースについて論じたものではない。
公民権運動がアメリカ全土を席捲した時代から20年経て、黒人コミュニティにどのような変革や意識の変化があったのかを、インタビューを通して探る内容。
すべてインタビューされるのは黒人女性というのも、この本のユニークなところ。





一章は、臨床心理医、ソーシャルワーカー、放送局オーナーなどコミュニティに密接な関係する仕事をしている女性。
二章は、詐欺犯と殺人犯と刑に服している女性。
三章は、両親が奴隷だった百歳を超える女性。

それぞれが黒人女性であることで受ける差別や困難を、雄弁に語りつつも、地域に根ざしたコミュニティを形成していく行動力がある。
本の題名のように、悲嘆に暮れてブルースを歌っても何も前に進んで行かないじゃないかという強い意志が感じられる。
コミュニティが分断され孤立に陥ったら、今まで脈々と受け継がれてきた、文化や伝統、芸術までも失うことになり、黒人であることの意味さえなくなる。
それは死に等しいことなのだと言葉にする。
どのインタビュアーも黒人であることに誇りを持っていて力強い。

最後の百才を超えたアニー・アレクサンダーさんの言葉が特に印象的である。

「ふつうの人びとよりひどい目にあってきたとは思いません。ごくふつうの生と死でした。愛する者たちを失うのはとてもつらい。でも避けられない。陽の光と雨。人間には二つながら必要なのですから」

この本が出版されてから22年後、アメリカに黒人初の大統領が選出されたことを、どう感じたのだろう。
そう思わずにはいられない。

(店主YUZOO)


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2017年12月27日 (水)

第7回 耳に良く効く処方箋




マルコス・ヴァーリ『シンガー・ソングライター』(オデオン)

マルコス・ヴァーリのブラジル本国での2枚目。
マルコスのボサノヴァ時代を代表する1枚で、メロディメーカーとして類い稀な才能を発揮した名盤である。
アメリカで大ヒットしたアルバム『サンバ68』は、ここに収められている曲を再アレンジしたものが多く、原点を知るならば、この1枚ということになる。


お洒落なカフェの必聴曲「summer samba 」、「バトゥーカーダの響き」、「If you went away 」など、絶対に一度は耳にした曲が勢ぞろい。
私のなかでは、ブラジルを代表する偉大なる作曲家といえば、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、マルコス・ヴァーリとなるが、その事についても異論はないだろう。


才能がある人が実力を発揮したときほど、美しく歓びに満ちている作品が創造される。
私のような凡庸な人物には、それは手の届くことのない羨望の的であり、それを耳にすることができる悦びであり、音楽の魔力というものを、否応にも思い知らされる。


音楽は音として流れている時にしか、その美しさを感じることができない。
終われば静が訪れる。
言わば線香花火のような、一瞬の儚さがある。
マルコスは、その音楽の宿命を熟知しているのか、流麗で物悲しいメロディを紡ぎ出しては、わずか3分程度に納めて、余韻だけを残していく。


ジャケットのアートワークといい、その後のアメリカでの活躍を思うと、地味な印象を受けてしまうが、決して内容が悪い訳ではない。
むしろ、若き日のマルコス・ヴァーリの溢れんばかりの才能が、大輪の花の如く開花したアルバムだといえる。


いつ聴いても、心の処方箋となる珠玉の逸品。

(店主YUZOO)

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2017年12月26日 (火)

第6回 耳に良く効く処方箋




キング・カーティス『インスタント・グルーヴ』(アトコ)

刑事ドラマの1シーンのようなジャケットである。
敏腕刑事カーティスは、晩秋の公園で長年探していた詐欺集団の親玉を、とうとう見つけ出す。
振り込め詐欺で多くの老人たちから金を騙し取り、その額たるや数十億円。
騙された老人のなかには、悲嘆に暮れて自殺した人もいるし、家族に顔向けできず失踪した人もいる。


それらの人々の心の内を思うと、善良な市民と同じく公園で優雅に散歩を愉しむなど、とうてい許されない行為であり、即刻捕まえて、冷たいコンクリートに囲まれた独房に叩き込みたい気持ちでいっぱいである。


しかし敏腕刑事カーティスを思い留ませることがあった。
この極悪非道の犯人も長年負い続けたせいか、だいぶ年を重ねていて、騙した老人たちの世代に近づいている。
その証拠に犯人の右手をぎゅっと握った孫娘の姿が視線の先にあるのである。
二人は落ち葉で埋まった散歩道を、ときおり笑顔を見せて、寄り添いながら歩いている。
逮捕される犯人の姿を孫娘には見せたくはない。


大木の陰に身を隠したカーティスは、今何処からか聴こえてくるこの曲が終わったら逮捕に踏み切ろう、と気持ちが揺れ動いたままだ。


その時流れていたのが、このアルバムの表題曲「Instant groove 」。
この黄昏の季節に似合わない極太のファンキー・ソウル・チューンである。
コーネル・デュプリーの歯切れの良いギター・カッティング、バーナード・パーディの機関車のような重量感のあるドラム、ジェリー・ジェモットのごりごりと唸るベース、その上をキング・カーティスのサックスが豪快に鳴り響くのだ。


センチメンタルな気持ちに陥っている暇はない。
とにかく音楽に必要なのは、老若男女が自然と身体が動いてしまうようなグルーヴを醸し出すことに尽きる。
そこの一歩先に進めない刑事さんよ、ここで奴に逃げられたら、それこそ、あんたは一生後悔し続けることになるんだぜ。
あの悪党は、人から騙し取った金でオモチャを買っているんだから、可愛い孫娘にまで詐欺しているのと変わりない。
改心するかどうかは、あいつが刑に服して自身で考えることだ。


ありがとう、キング・カーティス。
あなたの熱いサックス・ブローにソウルとは何なのか思い知らされたよ。
あの悪党には真実のソウルはない。
見せかけのソウルで一瞬だけ善人面を装っているだけさ。


そう敏腕刑事は呟くと、雲ひとつない晩秋の青空を見上げて、それから犯人の元へと歩み寄っていった。

(店主YUZOO)

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2017年12月25日 (月)

いざ出陣‼︎マツザカヤ名古屋店顛末記⑥





今日はクリスマス。
クリスマス・マーケットも最終日。
月曜日だけども、今日は有給休暇を申請して、家族とともに、恋人とともに過ごしている人もいるにちがいない。
いくら年末の忙しい時期だからといって、仕事を優先してばかりでは、家族や恋人に愛想をつかされてしまうと、賢明な判断をしたのだろう。

今日も背広に着替え、出社しようとしているあなた。
あなたが1日休んだぐらいでは、会社は潰れはしない。
今からでもいいから、お腹が痛くなったり、風邪をひいたりと、仮病を迫真の演技で演じて休むべきである。
さあ、しゃがれた声で呻くように、会社に電話をしてみよう。
神様はその程度の罪に罰は与えない。
クリスマスは年に一度だけである。
と書いている私自身が、典型的な日本人みたいに働いているんだけどね。トホホ。





今回、マトリョーシカを展示するにあたって、購買志向には地域の特色があることに気づき、その違いに驚いている。
たとえば夏に関西で同じような展示をしたときは、こんな感じである。
「この人形、なかにポコポコと入っているんわやろ?」
「はい。なかに4個ぐらい入っています」
「見せてぇ」
「こんな感じにですね。次から次へと出てきます」
「ほんまや。おもろいなあ。ほな、ひとつ買うとくわ」
会話のやりとりがあって、初めて商談が成り立つのである。
黙って買っていった人は一人もいない。





それに対して名古屋のお客様は、じっくりと選ぶタイプ。
自分の気に入ったものを、いくつか並べて、納得するまで比較する。
こちらは、マトリョーシカの産地や作家の特長を説明して判断材料にしてもらうのだが、その説明にも真剣に耳を傾けてくれる。
眼差しも熱い。
会話を楽しむというよりは、「納得」がキーワードで、それだけにお気に入りが見つかると、マトリョーシカに満面の笑みを浮かべてくれるので、こちらも幸せな気分になる。
いつまでも大切に飾ってくれる光景が目に浮かぶ。

それに名古屋の人は親切で律儀な人が多かったように思う。
探している店を尋ねると、その店の前まで案内してくれるし、行ったお店のマスターも昼時に奥様と一緒に、私たちを訪ねてくれる。
木の香を知っているお客様は、楽しみにしてしていましたと、嬉しい言葉をかけてくれる。
今回の展示で、納得と律儀が名古屋人の印象。




楽しかったなあ。名古屋。
また機会があれば是非とも出店したいなと思っています。
ありがとうございました。

(店主YUZOO )

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2017年12月24日 (日)

いざ出陣‼︎マツザカヤ名古屋店顛末記⑤





昨日の土曜日。
オルガン広場では、2時間毎にパイプオルガンが演奏される。
その荘厳な響きは、この一年間に起こった出来事を追想しつつ、ほんの小さなことで喜怒哀楽を露わにした自身を反省。
来年こそ穏やかで清々しい自分でありますようにと、切に願う次第。
パイプオルガンの響きは、人々をそんな気持ちにさせる天からの声に似ている。

クリスマス直前だけに、クリスマス・ソングをアレンジした曲が多かったなかで、思わず耳の産毛が逆立ったのは、ジョン・レノンの「Happy Christmas 」。
街中では原曲が流れることが多く違和感ないのだが、アレンジして歌う輩には、この歌の最も重要な部分「War is over ,If you want it,War is over now!!」を割愛して歌う不届きものがいる。




お前さんが歌が上手いのは、はいはい解りました。
それだけ声量豊かに歌えば、聴く方も感動のひとつ、涙腺のひとつも緩みましょう。
しかしねえ、お前さん。
この曲に込められたジョンの切なる希望を、爪の垢ほどもわかってねえじゃねえか。
それじゃ、ぜんぜんハッピーなクリスマスにならねえな。
臍が茶を沸かすぜ、すっとこどっこい野郎が‼︎
と江戸っ子に成り代わって愚痴のひとつも言いたくなるのだ。

しかしオルガン広場の演奏者は、♫War is over 〜をジョンからメッセージを天国から授かったという厳かな雰囲気で、この部分を繰り返し弾いてエンディングにしたのである。





江戸っ子は親の死に目にしか泣いてはいけないのに、自然と涙が頬を伝っていくのが、わかりましたよ。
この涙は希望の涙だ。
戦争を起こしたい下衆な野郎が、核兵器だのミサイルだのほざいている昨今、しっかりとこのオルガン奏者は、今に通じるジョンのメッセージとして伝えてくれたんだ。
これを聴く機会を与えてくれたことに、深く感謝しましたよ。





オルガン演奏は土日と祝日に開催されるそうです。
名古屋に住んでいる方も、その近隣に住んでいる方も、関東圏や関西の方も、東北や九州、四国の方も、一度は松坂屋に来られて、パイプオルガンの響きに酔い痴れてください。
もちろん北海道、沖縄の方も来てください。
一聴の価値はあります。

(店主・YUZOO )

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2017年12月23日 (土)

いざ出陣‼︎マツザカヤ名古屋店顛末記④





オルガン広場に佇んで4日目。
クリスマスもカウントダウンに入り、町中、愛で満たされて始めている。
昨晩も名古屋に来た以上、「世界の山ちゃん」に行かないといかんばいと思い立ち、ホテル近くの店舗で慰労会。
そこでは若いカップルがラ○ホと勘違いしているのかと、こちらが赤面するぐらい濃厚にイチャイチャしているのである。
もちろん手羽先をしゃぶりながら、カルピスハイなど、お飲み遊ばせながらである。

横に座った塩辛いオヤジには刺激的な光景で、早く酔わないと目のやり場に困るとばかりに、いつも以上のペースで盃を交わすはめに。
焼酎のボトルなど頼んで、こちらは胃のなかが熱々になるぐらいに呑んでしまったのだよ。
つまりオヤジは負けじと胃袋とイチャイチャしてしまったわけである。トホホ。





今や、全国チェーンの居酒屋になった「世界の山ちゃん」。
手羽先と愛と平和をお客様に提供している店に成長しているのかと、その企業精神に敬服。
ちなみに手羽先の味は、神田で食すのと変わらないけれどね。





さて個人的に嬉しいことをひとつ。
ロシアで買付したアンティーク陶器類が、ことのほか好評で、カップ&ソーサやティーセットなど、ほぼ完売。
ご購入されたお客様からは「安くて良いものが手に入りました」と嬉しい言葉をいただき、独りごちている。

目利きでもない私がアンティークを買い付けるのは、我流で茶道をするようなもので、趣味の領域を出ていない。
蚤の市で何となく目に留まったものを、お店のディスプレイのつもりで少しばかり買い求めているだけである。
もしかして自分は天性の目利きかもしれない、いづれは骨董品屋でも始めようかなと、自惚れてしまいそうである。

イチャつく恋人達を横目に、思い返しては独りニヤリと目尻を下げていた次第。

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2017年12月22日 (金)

いざ出陣‼︎マツザカヤ名古屋店顛末記③





昨晩、名古屋の夜はシャチホコが空を飛んでいた。
街路樹には光の実がたわわに実っていた。
恋人達の季節、到来である。

マトリョーシカを買い求めるお客様も、大切な人に、可愛い我が子に、プレゼントするために真剣な眼差しで見つめては迷われている。
私はこの迷っている姿を見るのが好きである。
ロシアに買付に行く身としては、作家や工房を巡り、こちらも迷い悩みながらセレクトして、日本に持ち帰ったのである。
お客様にも真摯に迷われた末に、お気に入りのマトリョーシカを選んでもらった方が、自分の買付した時の気持ちが伝わったようで、初夢に富士鷹茄子が現れたように嬉しく感じてしまう。




昨日もお志乃の説明を聞きながら、いろいろと悩まれた末に、イリーナ・ガモアさんのマトリョーシカを買っていかれたお客様がおられた。
お志乃との会話を愉しみながら、マトリョーシカを見つめる表情は和らいで嬉々としている。
その時の横顔は美しいと思う。
人生、眉間に縦ジワがよるような悩みが多いなか、たまに目尻が下がるような悩みがあっても良いではないか。





オルガン広場に射し込む冬の陽射しに微睡み、私は定年を迎えた草臥れたオヤジのように、その光景を目を細めて見つめ、意味なく微笑む。
ブランコに乗って「ゴンドラの唄」でも歌いたくなる。
黒澤明の『生きる』の名場面である。

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2017年12月21日 (木)

いざ出陣‼︎マツザカヤ名古屋店顛末記②





今回のクリスマス・マーケットの会場には、パイプオルガンが設置してある。
音楽ホールではない場所でパイプオルガンが置いてあるのは珍しいし、こちらとしては何時になると、その荘厳な響きが奏でられるのかと、気になるところ。
クリスマスにパイプオルガンの響きなんて、塩辛いオヤジでもロマンチックな気分になる。
演奏が始まったら「アヴェ・マリア」でも歌ったろうかいな。

しかしマツザカヤのスタッフに訊くと、土日に演奏するそうで、平日は無いらしい。
「アヴェ・マリア」もお預けである。




さて、このクリスマス・マーケット出店にあたって何が喜ばれるのだろうかと、お志乃とアヤと打ち合わせした末、作家のマトリョーシカは、オリガ・イリーナ姉妹・ガリーナ工房の作品を中心にすることが決まった。
名古屋のイメージは、パステルカラーでゴージャス。
そこにゴールドが散りばめられていれば、クリスマス気分が否が応でも高まるというもの。




彼氏や旦那さんから、オリガ・イリーナ姉妹のクリスマスツリーでもプレゼントされたら、たぶん1年間は出逢った頃の初々しい気持ちで過ごせること請け合い。
クリスマス・イヴも華やいだ雰囲気で過ごせる。
それほどオリガ・イリーナ姉妹のマトリョーシカは、強力な演出者、中日にいた助っ人パウエルのような頼れる存在なのである。

今年のクリスマスはパウエルと過ごそう!
なんのこっちゃ。

(つづく)

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2017年12月20日 (水)

いざ出陣‼︎マツザカヤ名古屋店顛末記①





いよいよ、今日からマツザカヤ名古屋店のクリスマスマーケットの開幕である。
この日のために5キロも減量したくらい、身も心も引き締まる思い。
何せ、名古屋で仕事をするのは初めて。
尾張名古屋は城でもつと言われたぐらいの地であり、世界の山ちゃんの発祥の地であり、餡かけスパゲッティを嬉々として食す御国柄である。





一筋縄で治めることができるとは思っていない。
どんな県民性なのか判らないだけに不安もある。
しかし、かの地にもマトリョーシカを愛する人は、必ずやいるはずである。
その人に会えるのを愉しみに、相模の国、駿河の国を新幹線で駆け抜け、ただいま三河安城駅を予定通り通過しましたという車内放送を耳にして辿り着いたわけである。






この出陣には、二人の名参謀が参加している。
軍師で名を馳せた志乃と隠密では右に出る者がいないアヤ。
2人と共に、ほぼ半日かけて店の装飾と搬入を行う。
自慢ではないが余計な会話はせず、何も足さず何も引かず、寒川神社の狛犬のごとく阿吽の呼吸で、クリスマスの雰囲気を創り上げる。

10時開店。
今回はどんな素敵な出逢いがあるのか、開店時間が待ち遠しい。

(つづく)

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2017年12月19日 (火)

第17回 紙の上をめぐる旅




芥川仁・阿部直美『里の時間』(岩波新書)

季刊新聞「リトルヘブン」で連載されていた記事を編集したのが、この新書。
残念ながら、この季刊新聞については目にしたこともなければ、聞いたこともない。
ゆえにこの謙虚なタイトルに誘われて読んでみた。


この本には、つい最近まで日本各地で営まれていた生活が、どこか懐かしい写真とともに綴られている。
それは山の麓にへばりつくように在る集落だったり、豊かな里山を背にした農村だったりする。


都会に住み続けている私が、そんな集落や農村の生活を懐かしいなどと形容するのは、おこがましいのも程があるのだが、なぜそのような感慨に浸ってしまうのだろう。
この本にあるように脈々と続いた日本人が営んでいた生活様式が、近年著しく減少、崩壊し、もはや絶滅危惧種の様相を見せているからなのだろうか。

その土地には明治維新より前から、豊穣祈願、収穫祭、風習、慣習、文化などがあり、絶えることなく続いていた。それを継承することは、次世代へのバトンであり、永年に渡って続けることで、その土地の文化が豊かで実りのあるものになっていく。


日本人は、便利な生活様式と引き換えに、それらの文化を棄ていった、もしくは棄てざるおえなかったのだろう。お金がすべての生活の上に鎮座していて、背に腹はかえられぬ状況だったに違いない。
それは高度成長期にあった集団就職や出稼ぎ労働者といった史実から推測できる。


便利な生活を長年享受してきた私が、二枚めの舌で、田舎に帰ろうといった論戦を張るつもりはない。
ただこの本で伝えている土地に根ざした生活は、実に豊潤で、仕事に対しても、人間関係に対しても、悦びに溢れている。


もう便利な生活は、人生の悦びと同義語にはならないのではないのか。多様な価値観があってこそ、生活や文化を豊かにさせ、自身の人生の意義に繋がっていくのではないか。
この本に映る満面の笑みを浮かべるお婆さんたちを見ると、そう思わずにいられない。

12月 19, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月18日 (月)

第5回 耳に良く効く処方箋




ネヴィル・ブラザーズ『ヴァレンス・ストリート』(コロンビア)

現在、ほぼ活動休止状態のネヴィル・ブラザーズ。
名前のとおり、アート、チャールズ、アーロン、シリルの4兄弟が中心となっていて、90年代に来日した際は、よくライブを観に行った思い出深いグループである。


それぞれ音楽の嗜好が異なる4人だけども、兄弟だけに化学反応が起きて、統一感のあるアルバムが出来上がる。
代表作は1989年に発表された『イエロー・ムーン』であることに異論はないが、このアルバムも4人の個性がバランス良く溶け込んだ好盤だと思う。


ピート・シーガーの代表曲「If I had hammer 」をアーロンの甘い歌声に、シリルのカリビアン嗜好が上手くマッチしているし、インスト・ナンバー「Valence street 」や「The dealer 」は、ニューオリンズ出身のグループならではの抜群のリズムを刻みこむ。
ワイクリフ・ジーン(フージーズのリーダー)との共演作「Mona lisa 」は2世代ぐらい差があるのに、ジェネレーションの違いなど物ともせずに、スローに熱くグルーヴしていく。


そして何よりも嬉しい収穫は、ファンク・マスターの長男アートが、ミーターズ時代を彷彿させるような最高のファンク魂をみせる「Real funk 」。
ニューオリンズ産のファンクは、俺様が創り上げたんだと言わんばかりに、シンコペーションし躍動するリズム、チャールズのサックス、そしてバャバャ〜〜と豪快に鳴り響くアートのハモンドオルガン。


アートのオヤジ声も素晴らしい。
この老舗旅館の番頭みたいな歌声で、50年近く音楽業界を生き抜いてきたのである。
まさに伝統の一献。
この声の艶と響きに旨みを感じないようであれば、音楽の肝というものが理解していないことになりますゾ。


仲良き兄弟の音楽は、聴くものを幸せにしてくれる。

12月 18, 2017 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月15日 (金)

第4回 耳に良く効く処方箋




アリス・コルトレーン『ア・モナスティック・トリオ』(インパルス)

アルバート・アイラーの精神性を重視したフリージャズを聴いてしまったので、同じくジョン・コルトレーンに多大なる影響を受けたアリス・コルトレーンのアルバムを聴く。
名前が表すとおり、アリスは、ジョン・コルトレーンの細君。
公私ともに夫が死に直面する時まで、添い遂げたのだから、真の継承者といえるかもしれない。


ウィスキーのロックでは、精神性の高いジャズはそぐわないと痛感したので、ここは焼酎に切り替える。
庶民的な酒を片手に、下世話な耳で聴いた方が、素直に修行僧のようなジャズの高尚さが、すんなりと入ってくるというものだ。


解説によると、このアルバムはコルトレーンの死後、最初に発表された作品で、鎮魂歌集にあたるもの。
「Ohnedaruth 」、「Gospel trane 」など黒人文化に根ざした主題とコルトレーンが理想とした世界を表現することに、全身全霊を傾けている。
最愛の人を失った悲しみと、その意志を引き継ごうという決意が全面に出た気迫極まる演奏である。
こういうジャズならば、下世話な私にでも理解できる。焼酎が心地良い。


アリスはピアニストなのだが、ジャケットでもわかるように、ジャズでは珍しくハープに挑んだ曲もある。
ハープは琴のような響きがあって、そのせいか東洋的な安らぎを感じることができ、日本人の耳には親しみがある演奏。
コルトレーン・カルテットのベース奏者、ジミー・ギャリソンがウッドベースが、良く響いていて、華を添える。


「Atomic peace 」は、下世話な私の耳には、極楽浄土を表現しているようで、自然に手が、焼酎をグラスに注いでしまう。
何億光年の彼方から届いた星の光は、もしかすると私たちが眼にした時には、もう砕け散って存在していないのかもしれないのだ。
逆を言えば、コルトレーンはこの世を去ってしまったが、その精神性は光となって何億光年の彼方へと解き放れているとも考えられる。


この大宇宙のなかにコルトレーンの精神は消滅することなく、永遠の魂をともなって生き続けている。合掌。


高尚なアルバムだったけど、私なり多少は、理解できた作品。
毎日は聴きたくはないけれどね。
さて、もう一杯。

12月 15, 2017 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月14日 (木)

第3回 耳に良く効く処方箋






アルバート・アイラー『イン・グリニッジ・ヴィレッジ』(インパルス)

前回、ルイ・アームストロングの紙ジャケット・アルバムをリサイクルショップでゲットしたと紹介したが、同じくゲットしたのが、このアルバート・アイラー。
ジョン・コルトレーンと同じレコード会社に所属していて、その精神性の継承者として注目されていたアルバート・アイラーだけに、このサイケデリックなジャケットと相まって、大きな期待を寄せる。
何せ、アルバート・アイラーを初めて聴くのである。


まずウィスキーのロックを用意。
この手のジャズは、ビールやハイボールのようなパンチの無い酒では、耳にガツンとはいってこないのである。
1曲目の題名「For John Coltrane 」。
敬愛する師に捧げる曲である。


手法はフリージャズか。
なんか楽屋裏でピッチ合わせをしているような音。
がちゃがちゃとした音の洪水が理解できない。
口元までグラスがいくが、酒がすすまない。


2曲目も同じ。
3曲目はマーチのリズムに耳を惹くが、やはりサックスのフレーズ垂れ流しに、耳が閉じていく。
精神性を重んじる時代。
このアルバムが発表された前年に、尊師ジョン・コルトレーンも『アセンション』という精神性の高い解読不能な作品を発表していたが、そういう時代だったのだろう。


こういうジャズを聴くなら、インド音楽の方が精神が昂まり覚醒すると考えるのは、私だけだろうか。
だいたい自分の人生に精神性を求めたことが、一度もない凡庸な人間である。
理解するだけの土壌がない。


ジャケット・デザインは良いのにと、繁々と見てみる。
気がついたら、グラスの氷が溶けて水割りになっている。とりあえず飲み干した。

12月 14, 2017 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月13日 (水)

第2回 耳に良く効く処方箋




ルイ・アームストロング『ハロー・ドーリー!』(キャップ)

1964年発表の名盤。
ルイ・アームストロングを聴くと、どんなに辛い事があっても、どんな災難に巻き込まれても、憂鬱で気が滅入りそうになっても、聴いている間だけは、幸せな気分に浸れることができる。
わすが30分程度の魔法であっても、その時間だけは、すべての嫌なことを忘れさせてくれる。
真のエンターテイナーとは、ルイ・アームストロングのような人物を指すのだろう。

ただ私の耳は、ルイの嗄れたダミ声にブルースの響きを、その親しみある人懐っこい歌の中に感じてしまう。
誰も一緒に口ずさみたくなるような歌を歌うルイだが、その明るくハッピーにさせてくれる歌に、なぜか計り知れないブルースが潜んでいるように聴こえるのだ。
人生が輝いているのは一瞬のこと。
それだからこそ、今宵を今日一日を愉しんで生きようではないかと、そんな気分が見え隠れするのだ。

酸いも甘いも人生の機微を熟知しているからこそ、明るい曲にもブルースが入り込んで、奥深い表現になっているのではないか。
この辺りの考察は、もう少しルイを聴かないと、その本質に近づけないだろうが。
まだ聴いている枚数が少な過ぎる。

大ヒット曲「Hello dolly 」はもちろん素晴らしいナンバーだが、他にも聴きどころが満載。
映画『ティファニーで朝食を』のタイトル「Moon river 」などは、アンディ・ウイリアムスの気障な歌より親しみがあるし、ファッツ・ドミノで有名な「Blueberry hill 」も牧歌的な歌唱で、指でリズムを取って、一緒に歌いたくなる。

このアルバム、紙ジャケット仕様のものを、近所のリサイクル・ショップで500円で購入。
何でまたとお得な買い物に驚く反面、この名盤を手放した人の事情が知りたくもなる。
よほどの理由があったとしか思えない。
だって、30分の魔法を手放したのだから、その心中を察したくもなる。

12月 13, 2017 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月12日 (火)

雪やコンコン旭川の旅(下)





会社からの特命を滞りなく終えて、今宵は旭川に宿泊となる。
ホテルのフロントの話では、土日は寒波が来て−15℃まで下がるから、良い時に来たということ。
つまり今日は過ごしやすい日という意味だが、都会の軟弱者には、凍れる寒さはすべて同じで、三寒四温のような繊細な肌の感覚が理解できない。
寒さに対する感覚が、根本から違うのである。
きっと3月には少しの温度差で、春の訪れを感じることができるのだろう。





さて特命慰労の晩餐会。
旭川ではラーメンを是非ご賞味くださいと、同僚が口にするのだが、残念ながら私にはラーメン愛はない。
以前に伝説のラーメン屋という名店に、長時間待ち覚悟で並んだが、ようやくカウンターに座るや否や、店主が従業員を怒鳴り散らす場面に遭遇。
さらにスープの最期の一滴まで飲み干してくださいという張り紙を見て、うんざりしてしまったのである。

食事は愉しく食べたいもの。
怒鳴り散らしている所では、自分が怒られているようで、ゆっくりと味わうことさえ気が滅入る。
また自信の表れだろうが、食べ方にまでウンチクを語る店では、その作法通りに食べないと、尻を叩かれそうで、こちらも気が滅入る。





とういう理由からフロントがお勧めの居酒屋へ。
私は北海道に来たら、まず最初に食べたいのは厚岸産の生牡蠣。
肉は艶々と輝いてプルプルとして、たっぷりとしたお汁。レモン汁を絞って、そのまま一気に口に入れる。
醤油をかけるのは邪道である。生牡蠣がその身に受けた潮水が、レモン汁と溶け合って、程よい塩味となる。
舌と頬が喜ぶ。美味し。
牡蠣の産地は、日本各地にあれど厚岸産が一番である。





二軒目はショットバー。
店に流れるのは、70年代のブラックミュージックのみ。草臥れたオヤジには、この上ない極楽浄土である。
ふとミーターズの「People say 」が久しぶりに聴きたいと思った途端、店内にあの独特のリズムが流れ始めた。
偶然なのだろうが、何か啓示を感じる。
特命を成し遂げた私へ、神様からのご褒美なのかとさえ思う。
今宵はそのぐらい思い上がっても、バチは当たらないだろう。

ようやく雪が降り止んだ。
旭川の夜はしんと静まり優しかった。






※残念ながら携帯をホテルに忘れたため、厚岸産の生牡蠣の写真はなし。
旭川は家具で有名な町だけに、駅舎も木をふんだんに使って温もりがあります。


12月 12, 2017 国内仕入れ, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月11日 (月)

雪やコンコン旭川の旅(上)







急遽、会社からの特命で、北海道の旭川まで行くことになった。
もちろん深圳と同じく極秘事項だけに、ここでは明かすことはできないが、とにかく早朝の羽田から千歳へと旅立ったのである。
初冬の朝焼けは、空気が澄んでいて美しい。

千歳空港までは約1時間40分。
東京から名古屋ぐらいの時間で着いてしまうのだ。日本は年を追うごとに狭くなっていく。旅情を愉しむことなど、遠い昔の絵空事になってしまった。
ウトウト、ムニャムニャと寝言をつぶやいているうちに到着となる。






着陸前の機内放送では「ただ今、外気の温度は−9°C。東京と気温差がありますので、くれぐれもお身体をお崩しになりませんように」と、艶のある声で伝えてくれる。
12月初めにして−9°Cとは、さすが悠久の大地、北海道である。
顔から霜柱が生える。
産毛に樹氷が林立する。

感心するのと同時に、背広に革靴、それに薄手のジャンパーで北海道に来た自分の無策に、思わず溜飲を下げる。
いくつになっても甘いんですな。
未来予想図などないのですな。




JRのホームに向かうと、電車遅延のお知らせがあり、その理由も北海道ならではの大らかさ。
電車の車輪が凍結したためのこと。
人身事故やら扉に荷物が挟まったためなどという人為的な理由でないので、やり場のない怒りで腹立つこともない。
車輪も縮み上がるような寒さなのである。車輪の気持ちもよく分かる。
ちょっとしたスキで、凍れてしまったのである。




札幌で特急ライラックに乗り換え、一面雪の大地のなかを旭川に向かって驀進する。
車窓は水墨画のよう。
樹々が凍り、きりきりと音をたてる世界。
タロウの上にもジロウの上にも、雪はしんしんと降り積もる。

(つづく)






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2017年12月 8日 (金)

第16回 紙の上をめぐる旅




A.チェーホフ『チェーホフ短編集』(集英社)

最近は記憶海馬がアルコールで濁っているせいか、名作といわれる文学作品をいつ頃読んだのか、それどころか粗筋まで忘れている始末で、実に心許ない。
かと言って、今更若い頃のように甘酸っぱい気持ちで、それらの名作の世界に入り込めるかと言うと、それも心許ない。
あまりにも世間を斜に見ることに慣れてしまい、新鮮で真っ直ぐな心持ちで、世の中の事象に対峙できなくなっている。

そんな擦れっからしのオヤジに嬉しいのは、古典的名作を新訳で新たな息吹きを与えようとする、昨今の出版社の動向である。
これならば満員電車で横目で覗かれても、今更青臭いものを読んでいるヘンなオヤジと、侮蔑の眼差しで見られることはない。
実にありがたい。

この『チェーホフ短編集』もロシア文学者の第一人者、沼野充義の新訳である。
しかも短編小説ごとに詳細な解説があって、それが大学の講義を受けているようで、作品の理解に深みを与えてくれる。
書かれたときの時代背景、ロシア語の日本にはないニュアンスをどう訳したかなど、作品を読むだけでは味わえない愉しさがある。

題名も過去の翻訳に囚われず、大胆に変更しているのも新訳らしく、ロシア語の文法では、こういうニュアンスと解説されると、思わず、満員電車のなかでフムと声が出てしまうほど。
「可愛い女」→「かわいい」。
「犬を連れた奥さん」→「奥さんは仔犬を連れて」。
題名が変わるだけで、小説の印象も変わってしまうようで、その試みはチェーホフの作品が現代でも通用する普遍性を持っているかと、大胆に挑戦しているかのようだ。

この短編集でとくに唸らされたのは「せつない」、「ワーニカ」、「ロスチャイルドのバイオリン」。
チェーホフが不条理と思えるユーモアを兼ね備えながらも、人間に対する深い理解をもって描いていることがわかる。
満員電車のなか、スマホに目が離せない昨今、新訳を手にして文学青年然として読書するのも、なかなかの快感ですゾ。

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2017年12月 7日 (木)

第15回 紙の上をめぐる旅




ジョージ・オーウェル『動物農場』(ちくま文庫)

飲んだくれ農場主を追い出して、動物たちが理想の国を築く。最初の数ページ読むと、動物たちは均等に食物が分配され、労働もそれぞれの得意なものに従事でき、何事も集会を元に決定される。
一見、ユートピア小説のように、もしくは原始共産制への回帰小説のように思えるが、読み進めるにつれ、独裁者が誕生すると、宣伝役が生産計画を代弁し、お互いを監視していく社会に変わっていくデトピアの様相を呈してくる。

そして最後は、敵対関係にあったはずの人間と指導者たちは手を結び、この動物農場はもはや理想社会ではなく、全体主義国家に変貌させるという結末になる。
否応にも、国家とは何か、理想的な社会とは何かと、いつまでも反芻させられる後味が苦い小説である。

デトピアを提示することで、ユートピアについて考えさせられる羽目になる。
これはこの小説が誕生した1945年が大きく影響しているのだろう。
第二次世界大戦の惨禍は、ヨーロッパの隅々まで焼き尽くしたにもかかわらず、その終戦間近では、早くも東西冷戦の悪臭を放つ花が芽を出し始める。
共通の悪の帝国だったファシズムが滅亡したにもかかわらず。

また人民のための国家として誕生したソビエト連邦も、スターリンの大粛清によって、全体主義国家の面を露呈した。
やがてアメリカも核開発と民主主義という飴と鞭で、同盟国という名の支配を世界に広げていく。世界の警察として。
まるで新しい手法の植民地である。

この小説は寓話的に書かれているだけに、国家の本質を突いているのではいか。
ファシズムも共産主義も民主主義も、本質的には一本の幹から枝分かれした国家体制であって、その幹とは権力を維持するシステムの構築であると、呑んだくれの塩辛い頭のオヤジでも考えてしまう。

開高健が解説で「権力ノ目的ハ権力ソレ自体ダ」という提議を果敢にも試みた小説家と、オーウェルのことを評しているが、この提議、グローバル化の名の下に価値観が一元化され、情報過剰な社会の中で思考するのをやめつつある現代人にも通ずるものではないだろうか。

多数決の原理を逆手にとって、きな臭い方向に突き進む国に住む人間にとって、この小説は、ほろ苦い。実にほろ苦い。

12月 7, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月 6日 (水)

第14回 紙の上をめぐる旅




吉村昭『大黒屋光太夫』(毎日新聞社)

井上靖と同じく、大黒屋光太夫を題材にした歴史小説。
著者は、大黒屋光太夫と共に、再び日本の地を踏むことができた磯吉の陳述記録があることを、郷土史家から知らされ、磯吉から見た光太夫の人物像が加わることで、この漂流譚に新たな物語が芽吹くのではと考え、執筆に至ったとあとがきで述べている。


井上靖は光太夫が感情に流されない剛健な人物として、吉村昭は情感豊かで社交性に富んだ人物として、それぞれ描いている。
吉村昭の光太夫は情に厚く、極寒の生活に堪えられず命を落とした仲間に対して、感情を抑えきれず涙を流し、また漂着先のアムチトカ島の島民の苛酷な生活に心を悼める。
同じ人物とは思えないほどに、その墨の色がちがう。


イルクーツクに置いて行くことになる庄蔵との別れは、このような描写で筆がすすむ。


庄蔵の泣き叫ぶ声が遠くなったが、悲痛な声がなおもきこえる。
やがて、声はきこえなくなった。路上に倒れ、身をもだえて泣きわめいている庄蔵の姿が思い描かれた。
かれは走るのをやめ、頬に流れる涙をぬぐうこともせず歩きはじめた。耳に庄蔵の泣き声がこびりつき、光太夫は嗚咽した。


また新たな資料が発見されたことで描かれた、井上靖の小説にはない場面。
限られた期間であるが故郷の伊勢で過ごす光太夫は、このような懺悔の心情に苛まれている。


光太夫の帰郷を知った水主の遺族が、訪ねてくることもあった。その度に、かれは手をついて頭をさげ、死をまぬがれさせられなかったことを心から詫びた。遺族は、光太夫の語る死の状況を涙を流しながらきいていた。


この数奇なる運命の漂流譚。
どちらの小説が、読者の心の柔らかい部分を刺激するのかは、人それぞれの好み次第だが、個人的には吉村昭のほうが、大黒屋光太夫の人柄に血の通った情が入っていて、読んでいて気持ちが良い。
もちろん井上靖の明治生まれの作家らしい堅苦しい文章も嫌いではないが。

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2017年12月 5日 (火)

第13回 紙の上をめぐる旅




井上靖『おろしや国酔夢譚』(文春文庫)

大黒屋光太夫の漂流譚を題材にした長編小説。
のちに映画化されるに至って、この数奇な運命を辿った光太夫の名が世に知られることになったことでも、マイルストーン的な作品。


光太夫を船主とした17名は、7か月の太平洋漂流後、アリューシャン列島にあるアムチトカ島に漂着。その後、ロシアに渡り過ごすこと10余年。
その間に、12名はロシアの大地に倒れ、2名はロシアの地に残ることになる。
仲間が1人消え、2人消えていこうとも、帰国へ思いは減ずることなく強くなるばかり。様々な策を講じたのちに、晴れて女帝エカテリーナの命で、日本の地を踏むことになる。
帰国は3人。
大黒屋光太夫とは如何なる人物であったのかと、俄然興味が湧くのは、人なればこそ。


この小説に描かれている大黒屋光太夫の人物像は、鋼のように強い精神力とリーダーシップ。それに事の成り行きを正確に判断できる洞察力を持った人物。
ややもすれば、計画遂行のためには非情な決断も辞さない性格にも映る。
たぶん極寒のイルクーツクでの生活に耐える人物として、そのように鉄の意志を持たなければ、とうてい悲願の帰国まで成し得なかったという著者の思いがあるのだろう。
仲間のうち12名が、帰国の願い叶わず落命したのだから、その意図もわからぬわけでもない。


イルクーツクへの旅が決まったときの光太夫の言葉。


「人に葬式を出して貰うなど、あまいことは考えるな。死んだ奴は、雪の上か凍土の上に棄てて行く以外に仕方ねえ。むごいようだが、他にすべはねえ。人のことなど構ってみろ。自分の方が死んでしまう」

また帰国が決まったものの、凍傷で片足を失った庄蔵をロシアの地に残さなければならない。それを告げたときの光太夫の行動。


すぐ庄蔵の許を離れ、そのまま背を見せて宿舎を出たが、外へ一歩踏み出したところで、小児のように泣き叫ぶ庄蔵の声を聞いた。うしろ髪をひかれる思いだったが、それに耐えた。


ただこの苦行僧のような感情を押し殺した精神力だけで、漂流した仲間が謀反を起こさず光太夫に追随したとは思えないし、帰国の途につけるように多くのロシア人が尽力したとは、信じ難い。
ロシア語を身につけるのが早く、問題に対して機転が利き、そして社交性に富む人柄に、多くの人を惹きつける魅力があったのではと思うのだが。

とくに光太夫の帰国に並々ならぬ情熱を燃やしたラックスマンは、友情を超えた魂の結びつきがあったと思う。
光太夫たちに不自由な思いさせないように配慮し、さらに帰国の嘆願書を書き、幾度も女帝エカテリーナに上申している。
同情だけでは、これ程までに突き動かされるわけがない。


発表されたのは1967年だから、すで50年の歳月が流れている。
その間に大黒屋光太夫についての研究はすすみ、この本に描かれているような、帰国後も幕府監視下、幽閉の生活を強いられたわけではなく、一度郷里の伊勢に帰るのを許されている。
そのあたりは、のちに発表された小説、吉村昭『大黒屋光太夫』に詳しい。


歴史は、新たな古文書や資料が出てくることで、その人柄に血が通い、人物像に奥行が出てくる。
また50年後、大黒屋光太夫を題材にした小説が登場したら、この数奇な人生に新たな視線が投影され、更なる魅力的な人物となるに違いない。

12月 5, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月 4日 (月)

第12回 紙の上をめぐる旅




桂川甫周『北槎聞略』(岩波文庫)

日本でロシアについての見聞録を残した、最初の記述書であり、現代においても当時のロシアを知る貴重な資料となっている。
奇跡的な帰国を果たした大黒屋光太夫への質疑応答を元にした内容は、難破してロシアへ辿り着いた経緯からロシア人の生活や言語に至るまで、詳細に綴られており、その頭脳明晰ぶりと観察力には、ただ舌を巻くばかり。

10年の歳月を経て帰国するまでの大黒屋光太夫の冷静かつ的確な行動も、魅力のひとつとなっている。
何しろ、船が難破してロシアに辿り着いた者は以前にもいたが、日本に帰国できたのは光太夫と乗組員だった3人のみ。
しかし1人は根室に着くなり、病に伏し無念の死を遂げている。
しかも光太夫は、女帝エカテリーナに拝謁できた唯一の日本人でもある。
井上靖、吉村昭といった歴史小説家が、その波瀾万丈の一生を見過ごすわけがない。

さて歴史小説家ではない、愚鈍なる頭脳の持ち主の私は、この記述書をどう読んだか。
大黒屋光太夫が、まったく未知の言語であるロシア語を覚え、さらに女帝エカテリーナとの拝謁がゆるされるほどにまで、どのようにして習得したのかが、知りたかったのである。
ロシア語は格変化が多彩だけに、会話ができるまでには、相当な言語的感性が求められる。
マトリョーシカ買付が10年になるが、未だに提示された価格を聞き取れず、さらに希望の個数を50と500を間違える、私が言うのだから間違いない。

江戸時代の書物ゆえ、読み慣れない文語体だけに、行きつ戻りつ読み進めていったのだが、驚くべきは、光太夫の記憶力。
難破して同乗していた仲間がどのようにして亡くなったのか、同じ漂流民としてロシアの地で亡くなった人の末路、願い叶って帰国の途につく際に、女帝エカテリーナ、ロシア貴族や親友からいただいた餞別の品々までも克明に覚えている。
ロシア人の名前も、ほぼ父性を含めてのフルネームで記憶。
さらに光太夫が廻船問屋の出身だからというのも差し引いても、餞別の品々の数量や重さまでも記憶しているのには、恐れ入谷の鬼子母神である。
残念ながら、如何にしてロシア語を学習したのかという記述はないが、この驚愕べき記憶力があればこそ、難解極まるロシア語も、砂に水が染み込むように難なく覚えていけたのではと思う。

『北槎聞略』は11の巻に別れていて、映画化にもなった漂流については3巻、ロシアの地名、風習、政治制度、物産などの記述が一番多く7巻、巻末付録のようにミニ露和辞典が1巻で構成されている。
この巻末付録が日本語訳が絶妙で、つまらない旅行用の会話本より面白い。

ドロカ=高直にうる
ズダラア=平安を賀する
ドモーイ=やどに居る
カクソート=名は何と
ウォーツカ=美酒

ウォッカは美酒である。
日本人が珍しかった当時、事あるごとに会食に呼ばれ盃を酌み交わした光太夫が、ウォッカを美酒と伝えたことに、お主もいけるクチだのうと、つい眼を細めてしまう。

これからロシアに行かれる方は、この偉大なる先人、大黒屋光太夫が残した『北槎聞略』をガイドブックとしてお勧め。
慣れない文語体に最初は引いてしまうが、丁寧な註釈があるので、ゆっくり読み進めていくと、冒険譚のような面白さと同時に中世ロシアを知るという一挙両得な内容です。

12月 4, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月 1日 (金)

第11回 紙の上をめぐる旅




林芙美子『下駄で歩いた巴里』(岩波文庫)

先日、紹介した『女三人のシベリア鉄道』での底本にもなっていた、この本を神保町の古本屋で見つけることができた。
やはり引用文を読むだけでは物足りない。実際に林芙美子の文章を辿りながら、当時のシベリア鉄道の旅を味わいたい。
その逸る気持ちが後押しして、古本屋を見つける度に、本棚を前にして背表紙を探していた。
快呼である。

ただこの本は、日本から巴里までの旅程を綴ったものではなく、生前に林芙美子が書いた旅にまつわる紀行文や随筆をまとめたものである。
国内旅行や樺太を主題としたものもある。
編集は立松和平。

まず眼を瞠ったのは、昭和初めの封建的な時代に、大胆に女性の一人旅を試みた個性と、自由奔放なる精神。
バックパッカーという言葉もない時代、好奇心と行動力で、言葉の問題など意に返さず、巴里や倫敦まで鉄道や船舶を乗り継いで、行き着いてしまう。
計画もどちらかと言えば無計画。
気の向くまま、足が向くままに、行き先を決めていく。大胆。奔放。流浪。享楽。無鉄砲。規格外。根無し草。
どの言葉も林芙美子の精神を、的確に言い表すことはできない。

「二ツある椅子ときたら背が高くて、足がどうしてもぶらんこしてしまいます。だが、時々笑いころげるにいい椅子。この椅子から楽しい仕事が出来ればなんぞ野心を持たぬ事。笑いころげて笑いころげて死んでしまう時は、この椅子にかぎります」

巴里で借りることになる、お世辞にも綺麗とは言えない部屋を見て、こんなことを思う好人物は、なかなか居るまい。

人生の意義を問い続けると、どうしても刹那的になりがちである。そして塞ぎこむことが多くなる。
しかし林芙美子はそのような薄弱さはない。

「私はいったい楽天家でしめっぽい事がきらいだが、そのくせ、孤独を全我としている。私の文学はあこがれ飢えることによって、ここまで来たような気がする」

そして現実的な生活者であった。
この本でも家計簿のように、食料、衣服、運賃などの価格を詳細に書き残している。
入金があると、飛び上がって喜んだ。
林芙美子の魅力は、この庶民性と決して虚勢を張らない生き方、そして生活者だけが理解できるユーモアが、今も愛されている理由だろう。


12月 1, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)