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2017年11月30日 (木)

第10回 紙の上をめぐる旅




森まゆみ『女三人のシベリア鉄道』(集英社)

題名から想像すると、妙齢の女性三人がわいわいと騒ぎながら、姦しくシベリアを旅行する珍道中記と思えるが、実は戦前にシベリア鉄道を旅した、三人の女流作家の足取りをめぐる旅行記。
その足取りを著者が辿る、鉄道と文学の愛好家を満足させる内容になっている。

その三人の女流作家とは、与謝野晶子、林芙美子、中條(宮本)百合子のこと。
三人とも同時ではないが、戦前にシベリア鉄道を使って、それぞれの目的地までの長旅をしている。
それぞれの目的地と書いたのは、与謝野晶子と林芙美子は、目的地は花の都パリ。中條百合子は、当然のことながらモスクワ。

シベリア鉄道は、愉しむ旅というより、あくまでも移動手段であり、車窓から見える延々と続く白樺林と草原に、ほとほと厭気が差していたところは、三人は共通している。
ほぼ一週間、風呂にも入れず、豪華な食事を愉しむこともなく、頰杖をついてぼんやりと窓辺に佇む旅。

著者は現代人らしく、始発駅のウラジオストク、バイカル湖で有名なイルクーツク、エカテリンブルクのダーチャでロシアの生活を愉しみつつ、同様にパリまで足を運び終着地としている。
今や、鉄道の旅を旅することは、贅沢の極みとなり、飛行機が海外旅行の主力となっている。
戦前、女流作家たちが車中で唇を噛み締めながら、ほとんど言葉の通じない車中で、不安に押し潰されてそうになっている時代とは、雲泥の差がある。

この本の中で、ひと際煌めいているのは、林芙美子。
ほとんど通じない言葉で、三等車で同乗となったロシア人やドイツ人と仲良くなってしまう、天性の朗らかさに胸が熱くなる。さすが『放浪記』の著者。
お互いの持ち物を交換したり、覚えたてのロシア語で親しくなり、一緒にお茶を飲む間柄にまでになっている。
つい自分が初めてロシア買付に行った頃と重なってしまった。
底本となった林芙美子の旅行記が読みたくなる。

この本、単なるシベリア鉄道乗車記にせずに、50年以上前に旅した女流作家と織り成すことで、旅する意味を再考させるのに成功している。
旅のない人生など何の深みもない。
そして異国を旅する時に生じる希望や不安は、どんなに交通網が発達しても、50年前と変わらない。そのことを証明している。

11月 30, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月29日 (水)

第1回 耳に良く効く処方箋




コーデッツ『リッスン』(CBS)

意外かと思われるかもしれないが、アカペラ・コーラス・グループが好きである。
無伴奏で人の声が紡ぎ出すハーモニー。
余計なモノを出さず、原材料にこだわるというウィスキー会社の心意気と似て、人の声本来の美しさを録音するというのは、なみなみならぬ努力がある。
今のように録音後にミックス作業で声のピッチを合わせたり、残響音を強めることができない、一発録音。
昔のアルバムのほうが、グループの実力が垣間見え、さらに加工されていない歌声だけに、良いブツに出会えると、自然と目尻が下がりだす。

オリジナル・アルバムは1957年発表。
「ジャケガイノススメ」シリーズの中の1枚で、世界初CD化として2007年に再発されている。
まず驚かされるのは、50年以上も前の録音なのに、ほとんどノイズは無く、女性コーラスの妙を十二分に愉しめること。
休符の部分でジャリジャリとノイズが聴こえてしまうと、純粋無垢な乙女にひそめたる残忍な気持ちを知ってしまったようで、興醒めする以上に、うら寂しくなってしまう。

アルバムのは「sentimental journey 」、「Basin street blues 」といったスタンダードナンバーやミュージカル曲を中心とした、今の観点から言えばラウンジ音楽的な構成。
音楽的な冒険はないが、4人の巧みなコーラス・ワークが愉しめる内容になっている。
金曜日の夜、バーボン片手に、若き日の甘酸っぱい思い出に想いを馳せながら聴くには、極上の酒の友。
彼女たちの歌声に、あの頃好きだった女の子が、グラスの底に見え隠れする。

コーデッツはCBSを契約後、ケイデンス・レコードの専属グループとして迎え入れられ、ロックンロール時代に順応して、「Mr sandman 」、「Lollipop 」などのヒット曲を連発して、音楽史に名を残すことになるが、もちろんその時はアカペラ・コーラスではない。
この純粋無垢な歌声は、このCBS時代しか味わえないものである。

どちらが好きかと言えば、私は断然に前髪パッツンのお下げ髪のようなCBS時代。
純粋にハーモニーを奏でる喜びに満ち溢れているし、若い女性の声のピッチが共鳴すると、音楽の魔法が現れる。
しかし楽器を取り入れたアレンジは、時代とともに風化し、時代が過ぎるとオールディーズの響きに変わってしまう。
それは音楽が流行という宿命を負わされているゆえ、仕方がないのかもしれない。
しかし歌声だけのアカペラは、時代を超えて普遍的な魅力がある。

それと忘れてならないのはジャケット・アートの清々しい美しさ。
女の子のスカートにはディズニー映画「わんわん物語」が描かれいる。
このカップルは初めてのデートで、田舎ゆえ行く場所は地元に一軒だけある喫茶店か、緑が美しい自然公園のなかを散策すること。
ただ二人で歩くだけでも、愉しくて仕方がないし、人生はどれだけの喜びに満ちているのかと考える。
そんな二人が写るジャケットを眺めているだけでもキュン死である。

11月 29, 2017 店主のつぶやき, CDレビュー | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月27日 (月)

中国深圳驚天動地の旅(下)





さて次の日。
会社から特命任務の遂行に与えられたのは24時間。まさにミッション・インポッシブル。
その間にミッションを任務を達成しなければならないので、同行の3人も緊張で表情が強張る。
深圳は巨大な都市。
最先端と雑多なものが、きらびやかに渦巻いている。ひと言で深圳を表すとすれば、華麗なる混沌。
新宿と秋葉原が同棲しているような都市である。




特命の内容は明記できないので、個人的な感想を述べるに留めるが、まだまだ中国はエネルギーに満ちていて、着実に進歩しているのを肌身に感じる。
十数年前に上海に行った時は、竹でつくられた足場でビルが建てられ、露地のあちらこちらに物売りが膝を抱え、ホテル周辺に得体の知れない屋台群が渋滞をつくっていた。
ぎょろりとした目つきで、こちらの動向を伺い、獲物と判断すれば捲したてるように話かけてくる。
華麗はなく混沌しか感じなかった。





しかし今はちがう。
メイン通りはネオンが煌めき、高層ビルが林立し、往き交う人々もお洒落で表情も輝いている。
香港に近い都市という理由だけでは説明できない、もっと根源的な要因があるはずだ。

国内に資金が満ちて、人々の生活水準が上がったのも当然だろうが、それ以上にインターネットにより世界が狭くなり、最先端技術や最新の動向が身近になったのが大きいはず。
人々がそれぞれの価値観で人生を謳歌しているのがわかる。
国の目指す価値観と国民が望む価値観が、乖離しているのは、世界中のどの国も同じなのではないか。

会社の特命を終えたあと、街中を歩いて興味深かった事柄を何点か。

街の中心地ある商業ビルが、すべてのフロアがワークショップのできる施設になっていて、油絵、革細工、切り絵、陶芸、フラワーアレンジメントなど、ホビーと名がつく手芸なら何でも体験できる。
日本には小さな規模ならばあるけれど、これほどの敷地で常設になっているのは無い。
しかも予約不要、その場でやりたければ参加できるようで、じっと見ていたら「やりませんか?」と勧められた。




今、日本では「モノ売りからコト売りへ」と、売上が伸び悩んでいる小売業界は、スローガンのように言葉にしているが、こんなにも大胆に、コト売り施設に資金を投じるのは、絶対に二の足を踏むに違いない。
誰かが最初の一歩を踏み出したら、その日の夕方には追随しているとは思うが、なかなかその最初の足を前に出す企業はない。

あとストリートミュージシャンの投げ銭には、思わず目を瞠って、数分まばたきを忘れてしまった。
投げ銭の箱にQRコードが貼られていて、携帯電話をかざすだけで、募金ができてしまうのである。
帽子やギターケースを広げて、ここにお金を投げ入れてくださいという方法は全時代的。最先端はキャッシュレス。
受け取る側としても、小銭を数える手間が省けるという塩梅なのだろう。

ストリートミュージシャンまで効率重視かと思うと、背筋に薄ら寒いものを感じたのも正直なところ。
便利さを追求し過ぎて、人類はどこに向かっているのかと問いかけたくもなる。





その晩は、昨晩と同じく広東料理。
このお店、中国版ぐるナビでは、五つ星の人気店。店の装飾や照明も静かなトーンでまとめていて、老若男女が集まるのがわかる。
値段もそれほど高くないので、少し高級な気分で晩餐を迎えるには、最適なお店だろう。

そこで10品ほど料理を頼んだのだが、驚くことにほんの2分ほどで、熱々の料理が運ばれてくる。
瞬時に円卓の上は料理で満ち足りて、ビールグラスを置く場所にさえ困るほど。
そして熱々といっても芯まで火が通っていて、舌が火傷するような地獄の沙汰なのである。
2分という短い時間で、これほどまでの高いクォリティの料理を完成するために、調理場では何が起きているのかと、いろいろと妄想してしまう。

ウェイターがメンタリストで、我々の顔を見るだけで、何を注文するのかわかってしまうとか、メニューには百以上の料理が書かれているけど、材料は同じで味付けの違いだけの料理が多いとか。

とにかく吉野家やすき家のような早い、安い、美味いでは、深圳では古い価値観なのである。
さらに品質と驚天動地が足されなければ、最先端とは言えない。

深圳、恐るべし見聞の旅であった。



※相変わらず、本文と写真は関係ないですが、
1枚目は業界人ならば笑えます。
究極のコピー製品。

(店主YUZOO)


11月 27, 2017 店主のつぶやき, 海外仕入れ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月23日 (木)

中国深圳驚天動地の旅(上)





つい先日、会社から特命を受けて、中国深圳に行くことになった。
もちろん中国に木の香出店の下調べでもなければ、日中友好の特使としてでもない。
特命ゆえ内容は明記できないが、会社としては重要ような事項であるのは明白で、私以外にも3人が同行することなった。
当然のことであるが、正しい判断である。

羽田空港から香港まで飛行機で行き、それから陸路で深圳に入る。
飛行機は4時間半ぐらいで、入国審査が30分ぐらい。陸路は2時間ほどで、途中で国境の検問がある。
香港空港はハブ空港なゆえか、たくさんの人種が集まっていて、まさにメルティング・ポット。海外に来たという気分に否が応にもなる。





悪友が香港と深圳は歩いても行ける距離だと嘯いていたが、香港から海の彼方に深圳のビル群が見えるものの、霧に包まれて摩天楼のようである。
それも向う岸に数十キロにわたって何棟も高層ビルが聳えているから、深圳の大きさがわかるというもの。

距離感を日本で喩えるならば、瀬戸大橋を渡るような感じ。
もちろん岡山県にも愛媛県にも、あれほどのビル群は存在しないが、とうてい歩いて行ける距離ではない。
悪友は舌から先に生まれた鎌倉に住む男。
海が目の前にないと、すぐに嘯く癖がある。

国境の検問はETC導入前の料金所のようで、たくさんの自動車で渋滞しているが、銃を携えた兵士が跋扈するような物々しさはない。
病院の待合室のようで
「カトウサンハダレ?」
と小窓から検問官が言うと
「ワタシデス」と手を挙げてニコリと笑うだけで済む。
「ニュウコクノモクテキハ?」と威圧的な詰問もなく、袖の下を要求されることもなく、平和裡に事務的に進むのが嬉しい。
自分のパスポートはロシアのビザばかりなので、少し不穏な動きでも何故か緊張してしまうのが癖づいてしまっている。





そしてホテルに着くと、現地のスタッフが迎えてくれた。
スタッフはとても気遣いのある人柄で、中国語が話せない私にいろいろと便宜を図ってくれる。日本人の「おもてなし」の一歩先をいく心のきめ細やかさである。
そういう時に、いつも自己嫌悪に陥るのは、海外に行く前に挨拶や最低限の言葉を覚えれば良かったと、ツボから手が抜けなくなった熊のように反省してしまう。
「你好」と「謝謝」だけで会話にもならない。




初日は打合せを兼ねて広東料理の店へ。
思えば、まだ陽の開けない早朝から今まで、すでに14時間も経っている。
どんなに緊張を強いられても、悲しいことが起きても、腹が減るのは人間の業である。
メニューには日本語こそないが、分かり易いように写真と英語が添えてある。

ただ嬉しいのは同じ漢字を使う国。
ひらがなの無い重厚感のある料理名を見て、どんな料理なのか想像がつくのが嬉しい。
「清蒸石斑魚」、「芙蓉蛋」、「清炒菜心」、「海鮮炒飯」と漢字が表すとおりの料理が運ばれてくる。
私は当然のことながら、まずは「啤酒!」と注文する。
もちろん青島啤酒である。

そこで最初に覚える中国語は「啤酒」と「好吃」と腹に決めた。
人間が生きていく上で重要な単語である。

食事にありつけなければ、餓死してしまう。酒にありつけなければ、心が休まらない。

ちなみに「好吃」は美味しいという意味である。


♬写真と本文はあまり関係ありません。
(店主・YUZOO)

11月 23, 2017 店主のつぶやき, 海外仕入れ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月19日 (日)

第9回 紙の上をめぐる旅




開高健編『それでも飲まずにいられない』(講談社文庫)

題名がしめす通り、酒にまつわる随筆、掌編小説、それにクレメント・フルードという作家の二日酔いに対する処方を綴った文章で構成されている。
当然のことながら、随筆はウンウンと我がことのように身につまされる話ではあるが、そんな風に酔ってはいけないと反面教師にはならない。
深い哀悼の念をもって同情するだけである。

酒呑みが反省と懺悔を毎朝繰り返していたら、教会はいくつあっても足りないだろうし、後悔という言葉はちがう意味に変わってしまうだろう。
しかしそんな凡人の酒呑みとは、まったくちがう肉体を持った人間、もしくはバッカスに愛された人間が、この世界には存在する。
開高健が尊師・井伏鱒二について書いた一文を紹介。

「あの人自身は、ハシャギもしない。ブスッとして飲んでいるだけだが、なんとなく人を誘い込んで、長酒にしてしまう癖があって、飲んでいる方は立てない。こちらはひとりで飲んでひとりでしゃべる。井伏さんは、相槌を打つだけだが、それでもなんとなく引きずりこまれてしまう。そのあげくが、玉川上水に飛び込んでしまったり、ご存じのように死屍累々という結果になる」

酒を呑んでついつい饒舌になり、仕事の愚痴を言ったり、自分がどれだけ女性にモテるのか吹聴したり、学生の頃の自慢話をしたりしているようでは、バッカスには愛されない。こちらに視線を送ることさえない。
しかも次の日、ズキズキ痛む頭を抱えて、布団の中で右へ左へと転がっているようでは。
他人の与太話に耳を傾けて頷きながらも、反論はせず、話の腰を折らず、黙って聞いている。今宵も愉しい酒だなと、目を細めるだけで十分ある。
そういう人物だけにバッカスは優しい瞳で見守ってくれるのである。

井伏鱒二が齢八十を越えての話である。
私のように酒の席で奇声を張り上げていては、バッカスが眼を瞠ることはない。
まだまだ若輩者と反省した次第。

11月 19, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月13日 (月)

第8回 紙の上をめぐる旅




山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)

芥川賞・直木賞受賞作家が綴るサントリー七十年史。
両作家ともサントリー宣伝部に在籍していただけに、創業者である鳥井信治郎のベンチャー精神を、豊かな墨を含んだ筆で、活き活きと描いている。

しかし筆遣いの巧みさ以上に、鳥井信治郎の経営感覚があまりにも破天荒で、決断、発想、行動、冒険、挑戦、先見、人情、どれをとっても規格外。センチか、インチか、尺か、どの物差しで測っても測定不能。
その強烈な個性に、思わず私の小さな眼も瞠らざる負えない。
社史という特殊性を差し引いても、フィクションを悠々と越えてしまう経営者は、数えるほどしかいないだろう。

山口瞳は、その企業精神を明治期の実業家に根付いている心として「青雲の志」と名づけ、開高健は飽くなき挑戦に「やってみなはれ」という言葉で表した。

さて。しかし。現在。
麻袋に詰め込まれた小豆のような個性が、「自分探し」、「夢を信じて」、「新しいことに挑戦」だの声高に叫んだところで、どうやって麻袋から飛び出すことができようか。
少し紅く色づいた程度で終わりだろう。
撤回する公なる理由が見つかった時点で、その珠玉の志は微かな腐臭を漂わせ、時が経つにつれ、理由が結論へと移り変わりてしまうのがオチだろう。
酒場の議論にさえならない。

明治が規格外なのか、平成が既製品なのか。
世界がどんどん小さくなり、ライバルも国内だけでなく世界中の企業としのぎを削らなければならない現在、すべての会社が既成概念からの脱皮を謳っているものの、試みるのはどこかの二番煎じ、もしくは石橋を叩いて渡らずになってはいないだろうか。
目まぐるしく変化する世界に、思わず言葉を失い絶句し、舌を巻くどころか、尻まで捲り上げてはないだろうか。

開高健は「驚くこと忘れた心はつねに何物をも生みださない」と言い「森羅万象に多情多恨たれ」と説いた。
生き抜くための真理である。


11月 13, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月10日 (金)

第7回 紙の上をめぐる旅




川崎浹『ロシアのユーモア』(講談社選書メチエ)

ロシアはアネクドート(小話)の宝庫である。
しかし読み人知らずのアネクドートを耳元で囁いて権力を辛辣に笑う、庶民の憂さ晴らしの文化は、過去になりつつあるようだ。
原因は、対象となるべき絶対的な権力体制や社会的矛盾が、表向きは無くなったおかげで、鮮度の良いアネクドートを生み出す環境がなくなったというのが実情みたいだが。
つまり池の水が澄んでくると、アネクドートという魚が住める環境でなくなる。

池の水が濁っていた頃の珠玉のアネクドートは、酒井睦夫『ロシアン・ジョーク』(学研新書)に収さめられていてるので、興味のある方は一読を。
またインターネットでも「ロシア・ジョーク」で検索すれば、容易に愉しむことができる。

この本は、アネクドートにかけては世界一を誇るロシア人の気質を、300年に渡る政治体制とともに推移したもので、やや学術的な色合いを帯びている。
つまりロシア庶民が反体制の旗を翻すことなく、宴会の席や親戚の集いなどで、信頼できる相手だけに耳打ちしたささやかな反抗の歴史を紐解いた本でもある。

それだけにアネクドートのオチの部分を解説する時があり、興味を削がれることがある。
話のオチを解説して笑いをとれるのは、林家三平ぐらいのもので、詳細な説明した時点で鮮度は落ち、生節のように鉛色に変化してしまう。
逆を言えば、他国に住んでいる以上、その国の政情や体制をよくよく理解しない限り、そのアネクドートの真の面白さや辛辣が半分もわからないとも言える。

アネクドートが実り多き時代は、やはりロシアの体制が大きく変化している時と重なる。
スターリン批判があったフルシチョフ時代。ペレストロイカのゴルバチョフ時代。
また停滞期と言われたブレジネフ時代は、自虐ネタが多く、意外にも収穫期を迎えている。
さて、その極上のアネクドートが犇めくなかで、現在の我が国にも通じる辛口の吟醸酒をひとつ。

フルシチョフが壇上から独裁者スターリンをはじめて批判し、スターリンの専横ぶりを数えあげたとき、出席していた党委員のなかから声があがった。
「そのとき貴方は何をしていたのですか?」
すると即座にフルシチョフが応じた。
「いま発言したのは誰か、挙手していただきたい」
誰も挙手する者がいなかったので、フルシチョフは答えた。
「いまの貴方と同じように、私も黙っていた」



11月 10, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月 8日 (水)

第6回 紙の上をめぐる旅




小沢昭一・宮越太郎『小沢昭一的東海道ちんたら旅』(新潮社)

TBSラジオの人気番組「小沢昭一的こころ」は、われわれ中年のどんよりと光る滓星にとっては、小沢昭一の軽妙な語り口を懐かしく思うだろう。

夕暮れ時に、会社に戻る車の中で、渋滞に苛立ちながらも、時事放談から猥談まで、その話術の巧みさと話題の広さに思わず微笑んで、すべての道は会社につながると、大船に乗った気分になった御同輩もいるのではないか。
冴えない父親の代表のような宮坂さんが、会社でも家庭でも粗大ゴミ扱いされ、行きつけの飲み屋でちびりちびりと酒を酌む姿に、深く同情した諸兄も多いのではないか。
私もそのクチである。

残念ながら小沢昭一の死去によって番組は終了してしまったが、さすが人気番組だけあって書籍やCD音源など、数々残されていて、あの語り口を思い浮かべながら、古本屋の鄙びた本棚で見つけては、少しずつ買っている次第。

この本は1995年に発刊で、東海道をテーマにしたもの。
カバーは車窓を模して四角い穴が空いていて、そこから琵琶湖を眺めることができ、カバーの裏は東京から大阪までの双六が印刷されている。
こういう凝った装丁は好むところで、電子書籍ではこの味わいは楽しめまい。

昭和生まれの私は、ページは人差し指で、あっち行けとばかりに携帯電話の画面の上を滑らすよりも、1枚1枚、楽しみながらめくっていくのが、性に合っている。
小学校の時代から、何かをめくることは楽しいものだ。

この本は、今や新幹線で2時間半で結んでしまう東京〜大阪間を、鈍行列車を乗り継いで行くのが粗筋。
あまりメジャーでない名所旧跡を巡ったり、B級グルメに舌鼓を打ったりと、肩肘の張らない気ままな旅が記されている。
昔の交通標語ではないが「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」を地で行っているような旅である。

岐阜にある男の遊園地、金津園の地名の由来を真摯に調査したり、セタシジミや山田大根といった今や食卓に上がらなくなった食材を探したり、それほど重要でない問題にこだわる姿がいい。
またベンチに座って、ぼんやりと若き女性の美尻に惚ける姿もいい。
これぞ、男の一人旅と言えよう。

あの名調子の語り口を頭に思い浮かべて読むのもよし、少しスケベなオジサンの道中記として読むのもよし。
どちらにせよ、肩の力が抜けること請け合い。四十肩も治ります。

11月 8, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月 3日 (金)

第5回 紙の上をめぐる旅




吉行淳之介編『酒中日記』(中公文庫)

昭和41年1月から「週刊現代」で連載された人気コーナーを単行本にしたもの。
題名通りに32名の著名作家が、その日に行った居酒屋、バー、スナック等について日記風に綴っている。
今は存在するかわからないが、作家や編集者がよく行くバー、つまり文壇バーなるものが銀座界隈には数多くあり、陽が暮れて尻のあたりがむずむずとしてくると、人目を忍んで通っていたらしい。

そこには大作家の某先生がウィスキーを愉しんでおられ、カウンターの隅では新進気鋭の若手作家が影のように呑み、テーブル席では編集者と流行作家が怪気炎をあげている。
ゆえに32名の作家でありながら、日記の上では同じバーで席を共にしており、芥川龍之介の「藪の中」のごとく、ひとつの小事件について、それぞれの立場から書いている。
小事件には、彼奴の妄言で修羅場を迎えた、受賞祝いで浴びるほど呑まされた、酔うと梯子酒をするから付き合いきれないなど、数々の証言が綴られているが、所詮酔客の濁った眼で見たもの。真相は藪の中である。

橋の下をたくさんの水が流れるが如く、舌の上をたくさんの酒が流れていく。
酒を嗜まない人からすれば、そんな前後不覚になるほどまで鯨飲して、醜態を晒し、何が愉しいのかと思われる向きもあるだろう。
それについての反省は、翌日、寝床の中でズキズキ痛む頭を抱えて、何度も十字を切っていることからもわかる。
反省する気持ちはその朝にしか訪れない。
酒呑みという人種は。

酒は舌を滑らかにする。
酒はひと時でもこの世の憂さを忘れさせてくれる。
そんな使い古された言い訳は今更言わない。
そこに酒があるから呑んでしまうのである。
赤い酒やら白い酒、果ては黄色い酒が、目の前で手招きするから、それならば呑んでやろうという気になってしまうのである。
これは酒呑みの習性。仕方がない。

この本。
あの著名な作家も鯨飲しては宿酔いに苛まれていると知り、酒呑みは勇気づけられる本。
バイブルにはならないが、参考書にはなる。

11月 3, 2017 ブックレビュー, 店主のつぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)