モスクワ地下鉄という名のタイムトンネル
ロシアの旅行ガイドをご覧になったことがあるのなら
ご存知かと思うが、モスクワの地下鉄が、
博物館や美術館のごとく、
豪華で数多くの彫像やレリーフに彩られていることを。
たとえば『地球歩き方』では
「モスクワのメトロ駅のホームは、宮殿を思わせる豪華さで知られている。(中略)乗車と下車を繰り返しているだけで、美術鑑賞をしているような気分になれる」という具合に。
というわけで、今回紹介する本は
鈴木常浩『モスクワ地下鉄の空気』(現代書館)。
著者は美術家のようで、極私的に、感覚的に、
ときには感情的に、
モスクワ地下鉄のデザインや彫像について、
言葉を吐き出すように書いているのだが、
それがデータ本のような味気のないものにならずに、
モスクワ留学記としても読むことができる。
全体主義を具現化したような
スターリン様式的なプロパガンダレリーフには、
吐き気を催すといわんばかりに痛烈に批判し、
露骨に賄賂を要求する警官たちに怒りを露わにする。
全体を通じてニヒリズムの霧が覆っているのだが、
不思議と不快感はない。
ソビエトの核であったコミュニズムの理想が崩壊し、
効率や利潤追求を主とする
欧米型資本主義に呑み込まれていく、
20世紀末のロシア市民の精神風景を
的確に捉えているからかもしれない。
モスクワの地下鉄は、
ナチスに勝利した大祖国戦争を緒端に、
民族友好のスローガン、計画生産のプロパガンダ、
全体主義の展示場、アバンギャルド芸術など、
それぞれの駅に
ロシアの歴史や文化が色濃く反映されている。
著者はそこに、ロシアの歓喜、理想、幻想、
虚栄、鎮魂を嗅ぎ取ったゆえ、
冒頭に「私はやはりロシアが嫌いだ。
四年間の長い旅を終えた結論である」と記したのだろう。
ただ個性も色彩も持たない日本の地下鉄を思うと、
モスクワの地下鉄は顔立ちが
はっきりとしていて羨ましい。
あの地底まで続くかと思われる
長いエスカレーターに乗っていると、
時間が逆流していくかのようで、
自分の居場所が判らなくなる。
あの何とも言えない感覚は、
モスクワの地下鉄特有のものである。
この本が書かれた頃のモスクワと現在では、
まったく違う都市へ変貌している。
けれども地下鉄の顔立ちは変わらず、
ソビエトであり、ロシアであり続ける。
モスクワ地下鉄は時間軸で区切られた博物館、
タイムトンネルなのかもしれない。
※写真は地下鉄の回数チケット。
(店主YUZO)
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