人が死ぬということ
人が死ぬということ。
その人がこの世界から存在がなくなったという意味のほかに、
夥しい数の遺品が残されるということでもある。
長年愛用していた食器、お気に入りの蔵書、趣味で集めた雑貨、
長年にわたって写された家族の写真、親友からの手紙。
私の祖母が亡くなったとき、
晩年には物欲もなくなっていた祖母なのに、
嫁入り道具たった足踏みミシン、旅先で集めた民芸品、
着られそうもない服、母が生まれた頃の写真など、
質素を好んで生きていた人の所持品とは思えないほどの
たくさんの物で溢れていた。
何十年と陽の目を見ぬまま押入れに納められた物たちは、
時間が止まったまま佇んでいて、その歳月の重みと深みに、
ただ沈黙せざるおえなかった。
これらの所持品がきちんと仕分けされ、
形見の品として数点が残された瞬間、
祖母の死を受け入れたことになるのだろう。
そう思いながら、休日の陽だまりのなか黙々と母と片づけをしていた。
リディア・フレイム「親の家を片づけながら」は、
そんな思いを綴った、ゆっくりと読みたい本である。
この本ではっと気がつかされるのは、
自分が生まれる以前の出来事は全然知らないということ。
父と母がどのような偶然の星のもとに出会って、
運命的に結ばれたのか。
その頃は過酷な時代だったのか。
幸福に満ちた時代だったのか。
本当に子供は何も知らないのである。
「人生の第一歩から立ち会ってくれた人、自分を創り出してくれた人、命を分けてくれた人を、土の中にいざなわなければならなくなる。しかし両親を墓の中に横たえるのは、子供の頃の自分を一緒に埋めるということなのだ」
「家の整理や引っ越しは、本来は単調な作業だ。しかしそうすることで故人の過去が揺さぶられ、その人が亡くなったという事実を突きつけられた時、それはとても耐えがたいものになる。親はもういないのに、なぜ私は彼らの家にいるのだろう?」
震災から一年が経った。
愛する人の死を自然と受け入れるまでには、
生前の故人の生き様を讃えたり、想い出に帰するまでには、
まだまだ一年は短すぎる。
(店主YUZO)
3月 13, 2012 店主のつぶやきブックレビュー | Permalink
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