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2012年3月13日 (火)

人が死ぬということ

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人が死ぬということ。

その人がこの世界から存在がなくなったという意味のほかに、

夥しい数の遺品が残されるということでもある。

長年愛用していた食器、お気に入りの蔵書、趣味で集めた雑貨、

長年にわたって写された家族の写真、親友からの手紙。

 

私の祖母が亡くなったとき、

晩年には物欲もなくなっていた祖母なのに、

嫁入り道具たった足踏みミシン、旅先で集めた民芸品、

着られそうもない服、母が生まれた頃の写真など、

質素を好んで生きていた人の所持品とは思えないほどの

たくさんの物で溢れていた。

 

何十年と陽の目を見ぬまま押入れに納められた物たちは、

時間が止まったまま佇んでいて、その歳月の重みと深みに、

ただ沈黙せざるおえなかった。

これらの所持品がきちんと仕分けされ、

形見の品として数点が残された瞬間、

祖母の死を受け入れたことになるのだろう。

 

そう思いながら、休日の陽だまりのなか黙々と母と片づけをしていた。

 

リディア・フレイム「親の家を片づけながら」は、

そんな思いを綴った、ゆっくりと読みたい本である。

この本ではっと気がつかされるのは、

自分が生まれる以前の出来事は全然知らないということ。

父と母がどのような偶然の星のもとに出会って、

運命的に結ばれたのか。

その頃は過酷な時代だったのか。

幸福に満ちた時代だったのか。

本当に子供は何も知らないのである。

 

「人生の第一歩から立ち会ってくれた人、自分を創り出してくれた人、命を分けてくれた人を、土の中にいざなわなければならなくなる。しかし両親を墓の中に横たえるのは、子供の頃の自分を一緒に埋めるということなのだ」

 

「家の整理や引っ越しは、本来は単調な作業だ。しかしそうすることで故人の過去が揺さぶられ、その人が亡くなったという事実を突きつけられた時、それはとても耐えがたいものになる。親はもういないのに、なぜ私は彼らの家にいるのだろう?」

 

震災から一年が経った。

愛する人の死を自然と受け入れるまでには、

生前の故人の生き様を讃えたり、想い出に帰するまでには、

まだまだ一年は短すぎる。

(店主YUZO)

3月 13, 2012 店主のつぶやきブックレビュー |

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