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2012年3月26日 (月)

音楽で花粉症は治るか?

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春は。

春は別れと出会いの季節と言いたいところだが、

私にとっては花粉の季節。

眼は産卵中のウミガメのようにウルウルとして、

鼻の穴は廃坑になった炭鉱のように深く閉ざされたまま。

無気力の井戸に放り込まれて、休日はひたすら惰眠を貪る

怠惰な生活に堕ちている。

 

潤んだ眼では読書する気分にもならないし、

もちろんマトリョーシカをつくろうという気分も起こらない。

 

ということで音楽を聴く時間が必然的に多くなる。

鼻の穴はずっしりと塞がったけれど、耳の穴は通じている。

清涼感のある音を聴いて、

少しでも閉塞した気持ちを耳から開放したいのである。

 

昨日は二十数年前に流行したブルガリアン・ヴォイスを聴いた。

当時、神秘のハーモニーと注目され、

ワールド・ミュージック・ブームも追い風となって来日も果たしている。

残念ながらコンサートに行くことはできなかったが、

音楽評論の大家・故中村とうよう氏に

「ブルガリア合唱を体験すると、音楽に対する感性がフッ切れるのである」

と言わしめた素晴らしいステージを繰り広げた。

 

その言葉とおり、この公演期間中、日本独自の企画で

ライブ盤1枚と録音盤2枚の、3枚ものCDがつくられた程だった。

 

人間の歌声とハーモニーは、どんな楽器よりも優れている

という言葉を再認識させてくれる中身の濃いCDである。

 

ちなみにブルガリアン・ヴォイスを簡単に説明すると、

日本人が好んで歌う合唱曲や

ウィーンの聖歌隊のような澄み切った歌声で歌うミサ曲でもない。

ブルガリアの古い民謡や祝祭歌、農作業の歌などを

現代的にアレンジして歌われる、いわば土着の歌である。

発声も地声のままに歌われ、何の装飾もない。

ただハーモニーとリズムは複雑に絡み合いながら融合し、

幾何学模様の手織物のようである。

もし興味ある方がいましたら、一度聴いてみては?

 

さて冒頭の花粉症の問題。

以前、雑誌にヨーグルトを食べ続けたら、いつの間に治っていた

という記事が載っていて、早速試したことがある。

1年間、3日に1箱というペースでブルガリア・ヨーグルトを食べた。

砂糖は不要、常温で食べたほうが効果ありというので、

それも律儀に守って。

 

結果は言うまい。

(店主YUZO)

3月 26, 2012 店主のつぶやきCDレビュー | | コメント (0)

2012年3月16日 (金)

マトリョーナ、君はいずこに

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マトリョーナを探す旅、始まる。

その旅とはマトリョーナの名前が流行したと言われる

18世紀末~19世紀末に書かれた小説に、

もしかしたら彼女の名前が載っているのではと予想して、

いろいろと読み漁ろうと思った次第。

 

この時代のロシア文学といえば、トルストイ、ドストエフスキー、

チェーホフ、プーシキンといったその名を世界に

轟かせた文豪が勢揃い。

もしくはその名前は、世界に響き渡れども、

意外に読まれていない文豪の時代でもある。

私自身も登場人物の多さと呼び名が相手によって変化するので、

早々に白旗を揚げて退散してしまった作品群である。

 

という背景もあるので、手始めにサルでもわかる初歩として、

トルストイ民話集『イワンのばか』を読んでみた。

 

結論から言ってしまうと、愛しのマトリョーナはここにはいなかった。

そしてサルには到底理解できない深い人生哲学が、

そこには描かれていた。

 

平易な文章でありながら

~翻訳されたものなので原文はわからないが~

人間の真の幸福な生き方とは何ぞやと、

鋭利な刃物で心の肉をえぐったかのごとく、

その真髄にまで達しているのである。

 

装飾語やきめ細かい情景描写を極力削ぎ落とした文章ほど、

真理に辿り着くといわれるが、

そのお手本みたいな圧倒的な筆力。

 

「わしらは兵隊には行きたくねえ」と、彼らは言った。「同じ死ぬもんなら、うちで死ぬほうがいいです。どのみち死ななきゃならねえなら」

 

この国にはひとつの習慣があるー手にたこのできる人は、食卓につく資格があるが、手にたこのないものは、人の残りものを食わなければならない。

 

だいたい世界的な文豪が50才を過ぎて達した境地、

人生観、世界観なのである。

子どもの絵本ですまされるようなテーマではない。

そして私のような凡人が気安く語るような作品でもない。

 

嗚呼、愛しのマトリョーナはどこにいる?

(店主YUZO)

3月 16, 2012 店主のつぶやきブックレビュー | | コメント (0)

2012年3月13日 (火)

人が死ぬということ

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人が死ぬということ。

その人がこの世界から存在がなくなったという意味のほかに、

夥しい数の遺品が残されるということでもある。

長年愛用していた食器、お気に入りの蔵書、趣味で集めた雑貨、

長年にわたって写された家族の写真、親友からの手紙。

 

私の祖母が亡くなったとき、

晩年には物欲もなくなっていた祖母なのに、

嫁入り道具たった足踏みミシン、旅先で集めた民芸品、

着られそうもない服、母が生まれた頃の写真など、

質素を好んで生きていた人の所持品とは思えないほどの

たくさんの物で溢れていた。

 

何十年と陽の目を見ぬまま押入れに納められた物たちは、

時間が止まったまま佇んでいて、その歳月の重みと深みに、

ただ沈黙せざるおえなかった。

これらの所持品がきちんと仕分けされ、

形見の品として数点が残された瞬間、

祖母の死を受け入れたことになるのだろう。

 

そう思いながら、休日の陽だまりのなか黙々と母と片づけをしていた。

 

リディア・フレイム「親の家を片づけながら」は、

そんな思いを綴った、ゆっくりと読みたい本である。

この本ではっと気がつかされるのは、

自分が生まれる以前の出来事は全然知らないということ。

父と母がどのような偶然の星のもとに出会って、

運命的に結ばれたのか。

その頃は過酷な時代だったのか。

幸福に満ちた時代だったのか。

本当に子供は何も知らないのである。

 

「人生の第一歩から立ち会ってくれた人、自分を創り出してくれた人、命を分けてくれた人を、土の中にいざなわなければならなくなる。しかし両親を墓の中に横たえるのは、子供の頃の自分を一緒に埋めるということなのだ」

 

「家の整理や引っ越しは、本来は単調な作業だ。しかしそうすることで故人の過去が揺さぶられ、その人が亡くなったという事実を突きつけられた時、それはとても耐えがたいものになる。親はもういないのに、なぜ私は彼らの家にいるのだろう?」

 

震災から一年が経った。

愛する人の死を自然と受け入れるまでには、

生前の故人の生き様を讃えたり、想い出に帰するまでには、

まだまだ一年は短すぎる。

(店主YUZO)

3月 13, 2012 店主のつぶやきブックレビュー | | コメント (0)

2012年3月11日 (日)

最愛の人を失うということ

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震災から一年が過ぎようとしている。

一瞬にして最愛の人を失った哀しみは、

あらゆる想像力を働かせても測り知ることはできないし、

その哀しみを同じ想いで共有することはできない。

励ましの言葉で、深い心の傷が癒えるわけでもない。

 

それどころか悪意のない励ましの言葉ほど、

逆にその傷をさらにえぐってしまっている気さえするのだ。

「絆」という言葉は良い響きがあるものの、

支え合う者が同等であればよいが、

どちらか片方が受け入れる側で、もう片方が差し伸べる側

という図式になってしまうと、お互いの均衡がとれずに、

差し伸べる側に奇妙な優越感が生まれてしまう

恐れさえあると思う。

 

耳に心地の良い言葉は、時には現実を曖昧に美化してしまう。

 

私の行うささやか援助では、

あなたの哀しみを喜びに変えることは絶対にできないと、

深く祈るように頭を垂れて、黙々と支援し続けたい。

今年もチャリティー作品展を開催する予定である。

あの時の記憶を風化させないためにも。

 

最愛の人を失った哀しみを題材にした写真集に

荒木経惟「センチメンタルな旅・冬の旅」がある。

写真集というよりモニュメント。

最愛の人を病気で失うまでを綴った日記。

 

家の中の風景や窓辺からの街並み、路傍の看板や植木は、

当事者しかわからない極めて私的なスナップで、

そこには生前の愛する人のぬくもりあり、

この世を去ってしまった現実を映した絶望と空虚がある。

頁をめくりながら、天才写真家の繊細な心の揺れと虚しさを、

少しだけでも感じることができる。

 

最後の雪景色のなかで遊ぶ愛猫チロのスナップが、

悲しいほど美しい。

 

ふと思うのは、最愛の人を看病しなから失う場合とちがって、

震災の場合は死の予感すらない。

ほんの数時間前まで一緒にご飯を食べたり、

他愛のない話で笑っていたりしたのだ。

その幸せのひとときは、一葉のスナップとして残っていない。

 

あの震災後、生きることの意味は大きく変わってしまったと思う。

すくなくとも私は。

(店主YUZO)

3月 11, 2012 店主のつぶやきブックレビュー | | コメント (0)

2012年3月 5日 (月)

マトリョーシカの国際デビュー年

 

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マトリョーシカが国際デビューを果たした1900年の

パリ万博とはいかなる祭典だったのだろう。

ついマトリョーシカはパリ万博で銅メダルをとり、

それ以後ロシアを代表する人形になったのですと、

安易に語ってしまうものの、実際に見学したわけでもないし、

その様子を伝え聞いたわけでもない。

ロシア工芸を扱う者にとって、

マトリョーナの名前同様に、気になるところである。

 

ただパリ万博の翌年は20世紀。

新しい世紀にむけて希望と博愛に輝いた

祭典だったのだろうと想像できる。

 

動く歩道やエッフェル塔にエレベータが設置されて、

開催国のフランスは

「フランスの美術100展」と題した美術展が開き、

開催国の威信をかけ、新世紀を夢見る人々が4700万人来場した

まさに19世紀の最後を飾るに相応しい一大イベントだったのである。

 

日本は日清戦争と日露戦争の狭間の年。

日本も西洋列強に追いつけ、追い越せと鼻息も荒く、

法隆寺金堂を模した建物に、御物や古美術品を並べて、

日本の芸術の質の高さを紹介している。

その熱意もあってか、大橋翠石という日本画家の

『猛虎の図』という作品が、優勝金牌を受賞している。

 

その華やかな舞台で、素朴な入れ子人形のマトリョーシカが

注目を浴びたというのも不思議な気がするが、

きっと開いても開いても次々と出てくる人形に、

人々は目を細めて、子供に戻って無邪気に楽しんだのではと思う。

 

この万博で希望した20世紀は、人々の想いとは正反対の

戦争の世紀になってしまった。

万博の活気は、その予感さえない蜜月の時間だったのだろう。

 

それを思うと、マトリョーシカは平和の使いと言えなくもない。

※写真はパリ万博のポスター。さすがにお洒落~♪

(店主YUZO)

 

 

3月 5, 2012 店主のつぶやき | | コメント (0)