米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」
年を重ねると中学や学校の学友が、
何をしているのだろうと想うのか、
同窓会や学級会がたびたび開かれる。
そんな大規模なものでなくても、クラブやサークル単位の集いは、
気心が知れた仲間なだっただけに、
懐かしさをともなって話題が尽きることがない。
私の場合も多聞にもれず、
同じ釜の飯を食べた間柄だっただけに、
クラブの仲間とは最近は頻繁に会うようになった。
当時の失敗談や象徴的な出来事が話題に上がるのは
当然としても、血糖値やコレステロール値、人間ドックの話が
つい口をつくのも年齢からくる特長的な話題か。
そのなかで若くして病気や事故で亡くなった友の名前が出ると、
一瞬、飲み会の座はしんと静まり返る。
ふつうだったらこの場にいるべき友がいない寂しさと、
まだやりたいことがあっただろうと友の無念さと。
この本は小学校のときに通っていた
プラハあったソビエト学校の友達に
40年近くのときを経て再会する話である。
当時のソビエト学校は、東欧の国々から来た共産党幹部の子女から
非合法活動家として亡命したきた一家の子息など、
様々な生い立ちの子供たちが席を並べていた。
その学校生活の様子は子供ならではの見栄や自慢があったり、
まだ見たことのない祖国への憧れだったりと、
私たちの学校生活と変わらない微笑ましいものだ。
そして時は流れソビエト崩壊後、それぞれの友だちに
数奇な運命を背負い込むことになる。
著者の構成の上手さもあって、何十年ぶりの友人との再会は、
映画の1シーンを見ているようである。
その中でユーゴスラビアの友人は、
民族紛争が勃発し、国に自由が訪れるどころか、
いつNATO軍の爆撃によって命を落としかねない
過酷な状況に置かれている。
「この戦争が始まって以来、そう、もう五年間、私は、家具をひとつも買っていないの。食器も。コップひとつさえ買っていない。店で素敵なのを見つけて、買おうと一瞬だけ思う。でも、次の瞬間は、こんなもの買っても壊されたときに悲しみが増えるだけだ、という思いが被さってきて、買いたい気持ちは雲散霧消してしまうの。それよりも、明日にも一家が皆殺しなってしまうかもしれないって」
その友人が悲痛な表情を浮かべ、今の心情を打ち明ける。
爆撃は数十キロ先の街で起こっていて、
今すぐにも爆弾の雨が降り注いでも不思議ではない状況。
このような状況に、
私ならばどんな言葉で友を勇気づけるのだろうかと考える。
戦争に巻き込まれなくても、
似たような状況が親しい人に起こらないとはかぎらない。
この本を読むと昔の友は何しているだろうかと、
無性に手紙を書きたくなる。
そんな気持ちにさせてくれる本です。
(店主YUZO)
11月 12, 2011 ブックレビュー | Permalink
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