開高健著「生物のとしての静物」
開高健には名随筆が多い。
戦争を語り、食べ物を語り、釣りを語り、人生の機微を語る。
この随筆では、万年筆、ライター、ジーンズ、
ナイフ、煙草、パイプといった
男の嗜好品について語り始めるや、話題はベトナムの戦場へ
アラスカの海へ、アマゾンの原生林へと話は飛び立ち、
大空を旋回し、留まることを知らない。
残念ながらマトリョーシカを語ることはなかったが、
もし語っていれば寒空のモスクワの露天商から、
シベリアの大自然までを豊穣な言葉で語っていたかもしれない。
ただ開高健が生きた時代は、ソビエト連邦だったせいか、
入国して旅をした内容の紀行文はないのも、
ひとりのファンとして寂しい気がする。
物を饒舌に語ることは、いかにしてその愛用品が
自分の手となり、身体の一部となりえたのかを
証明する行為である。
「この一本の夜々、モンブラン」での一文。
「飼いならし、書きならし、使いならしていくうちに好きとそうでないものが出てくるのであって、それにはやっぱり忍耐というのがどうしても求められる。忍耐してもいいという気になれるものとそうでない物があるんで、それは究極のところ、ブランドはありますまい。これは小さなことだけども、じつにむつかしいことでありますよ」
好きなったものに理由や説明はいりますまい。
恋愛と同様に。
今や私にとってマトリョーシカは、
傍から見て稚拙な絵柄であっても、名も無き作家物であっても、
その作品や作家との出会いを含めての存在なので、
どれがお勧めかと訊かれても言葉に窮することがある。
そういうときは、
「第一印象ですよ。ビビッときたマトリョーシカが運命の出会いです」
とお答えしている。他意はない。
毎日見ていても飽くことがない。
それがその人にとっての究極のマトリョーシカだと思うからである。
(店主YUZO)
10月 4, 2011 ブックレビュー | Permalink
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